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2006年1月 1日 (日)

産経の1/18記事

2007/1/18の記事です。

旧日本軍「細菌戦研究」 米が機密文書公開

 米国立公文書館(メリーランド州)は、旧日本軍が当時の満州(現中国東北部)で行った細菌戦研究などに関する米情報機関の対日機密文書10万ページ分を公開した。

石井中将 尋問記録も

 文書目録によれば、石井四郎軍医中将を含む731部隊(関東軍防疫給水部)関係者の個別尋問記録が、今回の公開分に含まれている。また、細菌戦研究の成果を米軍に引き渡したとされる石井中将が、米側に提出する文書を1947年(昭和22年)6月ごろ執筆していたことを裏付ける最高機密文書も今回明らかになった。(ワシントン 山本秀也)

戦争犯罪を立証

 今月12日に公開された機密文書は、ナチス・ドイツと日本の「戦争犯罪」を調査するため、クリントン政権当時の99年に米政府の関係機関で構成された記録作業部会(IWG)が、米中央情報局(CIA)や前身の戦略情報局(OSS)、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)などの情報文書を分析し、機密解除分をまとめて公開した。

 IWGの座長を務めるアレン・ウェインステイン氏は、「新たな資料は学者らが日本の戦時行動を理解する上で光を当てる」と意義を強調するが、作業は「日本の戦争犯罪」を立証する視点で行われた。日本語資料の翻訳と分析には中国系の専門家も加わっている。

 細菌戦などに関する米側の情報文書は、これまでも研究者が個別に開示請求してきたものの、一度にこれだけ大量に公開された例は少ない。

 情報の一部は34年(昭和9年)にまでさかのぼるが、終戦の45年(同20年)前後4年分が大半を占めている。

 文書内容の大半は731部隊など細菌戦研究に関する内容だ。公開文書の概要によれば、37年12月の南京事件に関する文書が一部含まれる。IWGでは「慰安婦問題」を裏付ける文書も探したが、「目的を達せず、引き続き新たな文書の解析を図る」と述べるなど、調査では証拠が見つからなかったことは認めている。

日本の使用警戒

 細菌戦の研究競争が大戦下で進む中、米側は日本の細菌兵器使用を終戦まで警戒していたほか、奉天(現瀋陽)の収容施設で、連合軍の捕虜に細菌実験が行われた形跡がないかを戦後調べたことが判明した。同じく米本土に対しても、日本からの風船爆弾が細菌戦に使われないか、米海軍研究所が回収した現物を大戦末期に調べ、「細菌の散布装置がついていないことから、当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も公開された。

 細菌戦に関する米国の日本に対する関心は、44年ごろから終戦までは、細菌兵器の開発状況と731部隊の活動実態の解明に重点が置かれ、終戦から47年ごろまでは、同部隊関係者への尋問による研究成果の獲得へと、重点が移っている。

 米側が最も強い関心を抱いたのは、731部隊を指揮した石井中将だった。45年12月の情報報告には、千葉県の郷里で中将が死亡したことを装った偽の葬式が行われたことも記されているが、翌46年から47年には中将に関する報告や繰り返し行われた尋問の調書が残されている。

保身引き換えに

 石井中将は自らと部下の保身と引き換えに、細菌戦研究の成果を米側に引き渡したとされてきたが、47年6月20日付の米軍最高機密文書は、こうした説に沿う内容を含んでいる。

 「細菌兵器計画の主要人物である石井中将は、問題全体にかかわる協約を現在執筆中だ。文書には細菌兵器の戦略、戦術的な使用に関する彼の着想が含まれる。石井中将の約20年にわたる細菌兵器研究の骨格が示される見通しであり、7月15日には完成する」

 同じ文書には、「日本南部の山中」に隠されていた「細菌に侵された200人以上から採取された病理学上の標本スライド約8000枚」が、47年8月末までに米側に提供されることも付記されていた。

 米側では日本からの情報収集を急ぐ一方、冷戦でライバル関係となる旧ソ連に細菌戦に関する情報が渡ることを強く警戒していた。ハバロフスク裁判のため、旧ソ連が請求してきた細菌戦関連の証拠引き渡しを渋る一方、約30人の731部隊関係者が「モスクワ近郊で細菌兵器の研究プロジェクトに従事している」とする48年4月の情報報告も今回明らかにされた。

(2007/01/18 10:26)

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20070515国民投票法の4紙社説

『投票法成立―「さあ改憲」とはいかぬ』(朝日)

 憲法改正の是非を問う国民投票法が成立した。野党第1党の民主党も含め、政党間の幅広い合意を目指してきたが、結局、自民と公明の与党が野党の反対を押し切った。

 いまの憲法ができて60年。初めて国民投票の手続きを定める法律をつくろうというのに、こんな形の決着になったのはきわめて遺憾である。

 衆参各院で3分の2の賛成がなければ発議すらできないという憲法改正の規定は、改正にあたって国民の幅広い合意形成を要請したものだ。そのルールを定める話なのに、参院選への思惑といった政党の損得勘定が絡み、冷静な議論ができないまま終わってしまった。

 最低投票率の問題をはじめ、公務員や教員の運動に対する規制など、詰めるべき点を残したままの見切り発車である。18項目にもわたる付帯決議でそうした問題の検討を続けるとしたが、ならばじっくりと論議し、結論を出してから法律をつくるべきではなかったか。

 さて、投票法の成立を受けて、安倍首相は7月の参院選で改憲を問う姿勢をますます強めている。

 そもそも投票法の成立を急いだのも、それが目的だった。中川秀直自民党幹事長は、今度の選挙で選出される参院議員について「任期6年の間に必ず新憲法発議にかかわることになる」とまで語り、自民党議員の当選には改憲への信任がかかっているとの考えを示した。

 改憲の中身として首相が語るのは、自民党が昨年発表した新憲法草案だ。その根幹は9条を変えるところにあると言っていいだろう。

 自民党案の9条部分を読んでみよう。

 9条2項の戦力不保持や交戦権否認の規定は削除され、代わりに「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する」といった文言が入る。

 つまりは、現在の自衛隊ではなく、普通の軍隊を持つということだ。自民党は、今後つくる安全保障基本法で自衛軍の使い方をめぐる原則を定めるとしている。だが、たとえ基本法に抑制的な原則をうたったとしても、憲法9条とりわけ2項の歯止めがなくなれば、多数党の判断でどこまでも変えることが可能だ。

 集団的自衛権の行使に制約をなくし、海外でも武力行使できるようになる。いつの日か、イラク戦争で米国の同盟国として戦闘正面に立った英国軍と同じになる可能性も否定されないということだ。

 首相は憲法を争点にするというのならば、自衛軍を持つことの意味、自衛隊との違いをもっと明確に語る義務がある。「戦後レジームからの脱却」といった、ぼんやりした表現ではすまされない。

 投票法ができたといっても、自民党草案や自衛軍についての国民の論議は進んでいない。参院選ではそこをあいまいにすることは許されない。

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『国民投票法成立 論憲をいっそう深めよう』(毎日)

 憲法改正の手続きを定める国民投票法が14日成立した。憲法が施行されて60年。手続き法とはいえ戦後政治が大きな節目を迎えたことは間違いなかろう。

 毎日新聞は社説で憲法に改正条項がある以上、国民投票の仕組みを決めるのは当然だと主張してきた。しかし、手続き法の制定が即、改憲につながるとも考えていない。今後、避けなければならないのは、具体的、現実的な議論もなしに「改憲か、護憲か」と単純に色分けするようなムードが広がることだ。大切なのは国民が判断するに足る冷静な論議の積み重ねである。

 国の最高法規である憲法の改正について落ち着いた議論を進めるためにも、私たちはせめて手続き法は各党が納得ずくで結論を得るのが望ましく、そのためには与党と少なくとも野党第1党・民主党の合意が不可欠だと再三、主張してきた。その点、参院に審議が移った後も双方が歩み寄ることがなかったのは極めて残念だ。

 ◇党利党略の結末

 きっかけを作ったのは安倍晋三首相だ。与党と民主党の実務担当者間では国民投票法には党利党略は絡めないとの了解があり、昨年末には合意寸前まで来ていた。ところが、首相は今年1月、改憲を7月の参院選の争点とする考えを表明し、これが、国民投票法を参院選で「安倍カラー」を打ち出す成果にしようとしているとの野党の批判を招いた。

 もっと理解できないのは民主党だ。小沢一郎代表は元々、与党と合意する気などなかったというほかない。参院選を控え、ここで合意しては対決姿勢がそがれる。改憲に反対の社民党などとの参院選での選挙協力も難しくなる。何より、民主党内で改憲に関して意見が一致していない。小沢氏がこうした党内事情を優先したのは明らかだろう。

 ちぐはぐさを象徴したのが、参院審議に入って突然、民主党の議員が、一定の投票率に達しなければ投票を無効とする最低投票率制度の必要性を訴え始めながら、新たに提出した対案には盛り込まなかった点だ。最低投票率は導入しないことで実務者間では既に与党と合意している。行き当たりばったりと言われても仕方あるまい。

 もちろん、国民投票法自体にも課題は残っている。テレビ・ラジオで投票を呼びかける有料CMは投票2週間前から禁じられるが、メディアの自主性を尊重すべきだとの意見は根強い。公務員や教育関係者の地位利用による運動は規制されるが、具体的にどんな行動を禁じるのかも定かでない。

 国民投票法が施行される3年後まで改憲案は審査、提出できないことになっている。与野党とも頭を冷やして修正すべき点は修正する作業を続けるべきである。

 国民投票の投票権者は18歳以上となった。世界の流れからしても当然のことだろう。これに伴い通常選挙の選挙権年齢も今の20歳以上から18歳以上とするなど関連法との整合性も検討していくことになる。民法や少年法などにもかかわる話だ。これも与野党で真剣な審議が必要だ。

 改憲の中身についても、きちんと論議を始める時だ。参院議員の任期は6年。7月参院選は改憲を発議することになるかもしれない議員を選ぶ選挙となる。憲法問題はいや応なしに参院選の争点となる。焦点はやはり9条だろう。

 安倍首相は先の特別委で自民党が一昨年秋にまとめた同党の新憲法草案が「党としてはベストと考えている」と答弁し、これを参院選で掲げていく考えを示した。

 草案は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」との憲法9条1項は維持し、2項を全面改定して、わが国の平和と独立、国・国民の安全を確保するため自衛軍を保持する内容だ。

 発表時、自民党は現憲法で禁じられていると政府が解釈している集団的自衛権の行使も可能になると説明したが、明記はしておらず、自衛軍の具体的な活動内容は別の法律で定めることにしている。では隊と軍はどう違うのか。

 首相は国会で「海外で武力行使ができるということか」との質問に対し、草案を読み上げるだけで明言を避けた。世論調査を見ても憲法問題は国民の関心が決して高いとはいえず、必ずしも理解が進んでいるとはいえない状況だ。こうした答弁では、ますます国民は判断ができなくなる。

 ◇押し付け論だけでは

 安倍首相は集団的自衛権に関する懇談会も設置している。行使ができると解釈変更した場合、さらに憲法改正してどうしたいのか。そこも不明だ。改憲案は関連する項目ごとに区分して発議することになったが、全面改正といえる自民党草案を、どんな手順で発議していくのかも分からない。

 首相が参院選の争点にするというのなら「押し付け憲法だから」とか、「時代に合わないから」といった抽象論ではもう済まない。分からぬことが多いままで、賛成か反対かで世論を二分するのではなく、いかに国民のコンセンサスを作っていくかが重要なのだ。どんな国にしたいのか、それが国民にどう影響を及ぼすのか。地道に議論を重ね、国民の判断を仰いでいく。それが毎日新聞が提唱してきた論憲の意味である。

 民主党も論戦から逃げてはならない。昨年末には専守防衛の原則を確認する一方で、国連の平和活動には積極参加するとの基本方針をまとめているが、改憲の必要はないということなのかどうか。党内議論を進めるべきだ。

 結論を急げというのではない。だが、憲法問題が新たな段階に入ったことを正面から受け止めたいと思う。私たちもいっそう議論を深めていきたいと考えている。

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『国民投票法成立 新憲法へ具体論に入る時だ』(読売)

 憲法制定以来、60年以上も放置されてきた憲法体制の欠陥がようやく是正された。

 憲法改正の手続きを定める国民投票法が、自民、公明の与党などの賛成多数で可決、成立した。国民の主権行使の中で最も重要な憲法改正にかかわる主権を行使することができるようになる。

 国際情勢や日本の安全保障環境の劇的な変貌(へんぼう)、日本の経済・社会の根本的な変化など、今日の内外の姿は、憲法制定時には想像すらできなかったものだ。しかも、今後さらに大きな変化の波を乗り切っていかねばならない。

 ◆憲法審査会の責務◆

 その指針となる新憲法を定めるための重要な基盤が整ったと言える。

 国民投票法は本来、与野党が対立する性格のものではない。民主党の小沢代表が、夏の参院選に向けて与党との対決姿勢を打ち出し、国民投票法を与野党対立に巻き込んだのは残念なことだ。

 参院本会議での採決の際、民主党の渡辺秀央元郵政相が、「政治家としての信念」として賛成した。民主党には、本心では同様の立場に立つ議員が、少なくないのではないか。不毛な対立から一刻も早く抜け出すべきである。

 参院選後の臨時国会から、衆参両院に憲法審査会が設置される。法施行は公布から3年後とされ、その間、憲法改正原案の提出はできない。だが、法施行後、速やかに改正作業に入ることができるよう、具体的な論点を整理することは、審査会に課せられた最重要課題だ。

 安倍首相は、参院選で、自民党が2005年に公表した条文形式の「新憲法草案」を有権者に問う、と言う。民主党は「憲法提言」を発表し、公明党は「加憲」を主張しているが、いずれも未(いま)だに条文の形にはなっていない。

 もはや「憲法改正の是非」ではなく、変えるとすれば、どこをどう変えるのかを論じるべき時だ。その観点から、民主、公明両党も条文化を急いでもらいたい。各党が具体的な改正案を明示し、憲法改正原案の基本となる要綱策定の作業を促進することが大事だ。

 関連の法整備にも早急に着手する必要がある。

 国民投票の権利を持つのは「日本国民で年齢満18年以上の者」とされた。これに伴い、付則第3条は、法施行までの間に、選挙権年齢、成年年齢をそれぞれ20歳以上と定めている公職選挙法及び民法その他の法令を検討し、「必要な法制上の措置を講ずる」としている。

 ◆18歳投票の法整備を◆

 国会図書館の調査では、米英仏独など欧米はもちろん、ロシアや中国も含め、186国・地域のうち162国・地域が、18歳以上だ。これが世界の標準だ。18歳以上とするのは自然なことだ。

 人口減の下で、国の将来への若い世代の責任意識を高めることにもなる。

 無論、法整備は容易ではあるまい。

 成年年齢を18歳以上に見直す場合、関係する法律は100本を超える。国民の権利・義務、保護など、社会のあり方に大きな影響を及ぼす可能性がある。

 例えば、18歳になって犯罪を犯せば、少年ではなく、成人としての刑事責任を負う。実質的な厳罰化となる。

 未成年者の法律行為は、原則として法定代理人の同意が要る。18歳で民法上の契約ができることになれば、若年世代の経済活動の範囲が広がる。それに伴い、責任も負うことになる。

 広範な影響を考慮し、日本社会のあるべき姿を見据えた検討が必要だ。

 先の参院憲法調査特別委員会での採決に当たって、自民、公明、民主3党の賛成で付帯決議を採択した。法施行までの間、憲法審査会で憲法改正上の課題について十分調査することなど18項にわたるが、全体として妥当な内容である。

 与党には、民主党に一定の配慮をすることで、将来の憲法改正での共同歩調の可能性を残したい、という判断もあったのだろう。

 気掛かりなのは、憲法審査会で、法施行までに、いわゆる最低投票率の制度の「意義・是非」について検討を加える、としている点だ。

 一定の投票率に達しないと、国民投票自体を無効とする最低投票率制度の導入は、従来、共産、社民両党などが主張してきた。憲法改正を阻止するための方策という政治的な意図が背景にある。

 ◆最低投票率は不要だ◆

 だが、外国を見ても、最低投票率制度を導入している国は少数派だ。欧米先進国では、米独には憲法改正に関する国民投票制度はない。フランスやイタリアには、最低投票率の規定がない。

 衆院で否決された民主党提出の国民投票法案にも、最低投票率の規定はなかった。最低投票率制度の導入にこだわるべきではあるまい。

 憲法審査会の論議が進めば、有権者は現実の課題として憲法改正に向き合うことになるだろう。時代の要請に応えて、新憲法へ、大きな一歩をしっかりと踏み出さねばならない。

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『【主張】国民投票法成立 新憲法制定が政治課題だ』(産経)

 憲法改正手続きを定める国民投票法が成立し、施行から60年間放置され、改正を事実上阻んできた法的不備の状態が解消された。新憲法制定が現実的な政治課題となった歴史的な節目といえる。

 憲法改正原案の提出や審査は、平成22年の国民投票法施行まで3年間凍結されるが、国民投票の実施に備えて詰めておくべき課題は多い。

 新憲法が国民参加の下で制定される過程で、中立性を求められる公務員にどこまで政治的活動が認められるかという問題もその一つだ。

 国民投票法では、政治的行為を制限する国家公務員法、地方公務員法の規定が原則適用される。しかし、公明党の意向で「賛否の勧誘」や「意見表明」を認めるため、何らかの法律上の措置をとることが付則に加えられた。民主党は公務員への制限撤廃を唱えたほどであり、自公民3党の間でも考え方に大きな違いがある。

 日教組のイデオロギー闘争が教育現場に弊害をもたらしてきたことを考えれば、公務員の政治的活動を無制限に認めることへの懸念は拭(ぬぐ)えない。

 特定の主義主張や省益などを背景とした公務員の政治的活動が、国民の自由な判断に干渉を与えないようにするという観点が欠かせないだろう。

 国民投票の導入にあたり「18歳成人」をどう考えるかという身近なテーマもある。投票年齢が選挙権年齢の20歳から18歳に引き下げられることで、未成年者の結婚年齢(男18歳、女16歳)はどうなるのか。飲酒・喫煙の解禁は20歳以上に据え置くのか。

 関係する法律は約30本に及ぶという。新憲法制定への国民の関心を高める意味でも大切な作業である。

 参院選後、衆参両院に置かれる憲法審査会が新しい議論の舞台となる。国民投票実施に向けた環境整備にしっかり取り組んでほしい。

 もとより、肝心の憲法改正の中身の方の議論を忘れてもらっては困る。すでに自民党は新憲法草案を持っているが、公明、民主両党はいまだに条文化作業に着手していない。

 14日の参院本会議では、与党案に反対の立場をとった民主党から賛成者、欠席者が出た。3年間の凍結期間を理由に、党内論議を先送りするような姿勢はもう取れないはずだ。

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教育再生会議第一次報告への各紙社説(2007/1/27記載)

朝日【社説】2007年01月26日(金曜日)付
教育再生 見切り発車は危ない

 教育再生会議の第1次報告を受けて、安倍首相は提言の実現に必要な法律改正案をこの国会に出す考えを表明した。法案づくりを担当する文部科学省は大急ぎで作業を始めた。

 今の教育がさまざまな問題を抱えていることは間違いない。早い改革を願う国民も多いだろう。首相が指導力を発揮しようと意気込むのも理解できる。

 問題は、改革の中身と方向である。

 柱の一つは、教員免許法の改正だ。いまの教員免許に有効期限はないが、これを10年間とし、講習を修了すれば更新する。中央教育審議会はそんな制度を答申したが、教育再生会議は不適格教員を排除するような厳しい更新制を求めた。

 私たちも、教える力のない教師には退場してもらいたいと思う。けれど、教師を萎縮(いしゅく)させ、教職をめざす学生を減らしかねない制度は行き過ぎだ。厳格化にはそうした副作用が心配される。

 学校教育法も改正して、校長の補佐役として副校長や主幹のポストを新設する。教師が雑務から解放され、子どもと向き合う時間が増えるなら結構だろう。

 だが、増員なしで管理職を増やすだけなら、逆に現場の教育力は落ちてしまう。増員予算の裏付けが必要だ。

 もっと心配なのは、教育委員会のあり方を根本的に見直すという、地方教育行政法の改正である。

 現在は都道府県と政令指定都市が持つ教員の人事権を、できるだけ市町村に移管する。その代わり、小さな市町村の教育委員会は統合する。教育再生会議はそう提言した。

 ほとんどの小中学校は市町村が設立しているのに、教師は人事権を持つ都道府県に目を向けがちだ。多くの市町村は、人事権が移れば教師の意識が変わると期待している。

 その一方で、第1次報告は国が教育委員会の基準や指針を決め、外部評価制度を導入するよう求めた。教育長の任命に関与する仕組みの検討も求めている。

 地域がその子どもたちの教育のあり方を決められるようにする分権の方向性と、国の関与を強める方向性が混在している。どちらで進めようというのか、これは重大な問題をはらんでいる。

 実現すれば、教育現場を大きく変えるものばかりだ。それにしては、あまりに議論が不足し、疑問点が多い。再生会議のメンバーにも戸惑いの声がある。

 そんな懸念を振り払い、見切り発車で法案化を急ぐ背景には、夏の参院選をにらんで政策の目玉をつくろうという政権の思惑が透けて見える。下がり続ける支持率を挽回(ばんかい)するためにも、最重要課題と位置づける教育改革で具体的な姿を示したいということなのだろう。

 だが、第1次報告が「社会総がかりで教育再生を」とうたったように、教育とは社会全体で取り組むべき事業である。

 国民や現場の声を幅広く集め、合意をつくる努力がもっと必要だ。それなしに実のある改革はできるはずがない。

1月25日付・読売社説(1)
 [教育再生会議]「国民的議論のたたき台ができた」

 報告書の表題に「社会総がかりで教育再生を」とある。公教育の再生のためには全国民的な参画が欠かせない、というメッセージが伝わってくる。

 安倍首相直属の教育再生会議が第1次報告をまとめた。取り組むべき課題を掲げた「7つの提言」が柱だ。

 「新味に欠ける」「議論不足」といった批判もあるが、3か月足らずで、教育の根本議論のたたき台をまとめ上げた委員たちの労は多としたい。どの提言をどう実現させていくのか、今後は首相の判断と国会の対応が問われよう。

 提言の最大の特徴は、「ゆとり教育見直し」を明確に打ち出したことだ。「授業時数10%増」「基礎・基本の反復」「薄すぎる教科書の改善」などを提唱し、学習指導要領の改定を求めている。

 子どもの学力低下の不安が広がった背景には、教える内容や授業時数を大幅に削ったゆとり教育がある。今回、政府の有識者会議として、初めて“脱ゆとり”を宣言した意味は大きい。

 「学校週5日制見直し」も今後の検討課題に挙げられた。学力向上を図るために多面的な議論を深めてもらいたい。

 報告書は、提言の内容に沿った速やかな法改正も求めている。

 免許更新制の導入に伴う教員免許法改正もその一つだ。「指導力不足」などの不適格教員を教壇から排除し、「免許を取り上げる」仕組みを提案した。文科相の諮問機関・中央教育審議会が答申した更新制よりも厳しい内容だ。

 文科省は再度、中教審に諮った上、改正法案を通常国会に提出するという。再生会議の提言の趣旨を損なわないよう、十分配慮すべきだ。

 教育委員会の抜本改革のため、地方教育行政組織法改正も緊急課題だとしている。廃止論もあったが、「いじめ」や高校必修逃れ問題での不適切な対応などを機に、逆に機能再生論が高まった。

 「責任の明確化」「教員人事権の市町村教委への委譲」「第三者機関による教委の外部評価」などが提案された。

 一方で、文科省の、教委への指揮監督権限強化も検討課題とされた。国の関与を強めるのであれば、タウンミーティングの「やらせ質問」や、必修逃れの実態を把握しながら教委への指導を怠っていた問題などについて、文科省自体の反省と点検が欠かせないのではないか。

 いじめを繰り返す子どもへの出席停止制度の活用、教師の体罰を禁じた規定の見直しなども盛られている。家庭の「しつけ」の大切さにも言及している。

 報告書をもとに、まさに国民「総がかり」で教育を論じるべき時である。

毎日社説:教育再生提言 せいては百年の大計を誤る
 政府の教育再生会議が第1次報告を決定し、安倍晋三首相は関連法改正案を通常国会に提出すると表明した。いじめ自殺、履修不足など相次ぐ教育問題や矛盾に素早く対処することに異存はないが、今回の報告の内容や方向は、もっと時間をかけて国民の間に合意や理解を形成すべきものだ。法という形ばかり急いでも実りある成果がないどころか、混乱をもたらすだけになりかねない。

 現状を「公教育の機能不全」とみる報告は改革へ「社会総がかり」を唱え、学力強化、いじめや校内暴力の根絶、教員の質向上、教育委員会の変革などを挙げた。教育、特に学校教育はその時代の価値観や目標を背景に、緩やかながら多くの国民の「このようなものだ」という考えを映している。そういう意味で、今回の報告を読み進めると、これは広く意見を集め、論議を掘り下げるべきだと思われる問題に次々行き当たる。

 例えば、「体罰の範囲の見直し」はあっさりと記述されているが、戦後学校教育の基本理念にもかかわる重大な提起だ。体罰は学校教育法が禁じ、通知によって禁止行為が示されている。直接的な暴力だけではなく、肉体的な苦痛を与えたり、教室から追い出すことなどもその範囲に入る。

 校内暴力やいじめ、学級崩壊、授業妨害など深刻な問題に対処するためにはある程度やむをえないという考え方もあるだろう。それはそうとしても、心や人格を傷つけることがあり、教育上もしばしば逆効果になるとして一切禁止を定めにしてきた体罰を「国が今年度中に見直し、周知徹底のうえ新学期から各学校で取り組めるようにする」とは、あまりに短兵急ではないか。

 また、学力強化のため「教育委員会・学校は補習などを行う『土曜スクール』を実施するよう努める」としているのは、遠回しの表現ながら実質的に学校6日制復活の意を含むとも読める。

 確かに土曜補習をしている公立学校は既にあり、私立の多くが5日制を採用していない実態からみてこの提起には根拠がある。しかし、5日制導入に際しては論議と試行を重ねた。見直すにしても社会の週休2日制との兼ね合いも含め、再びコンセンサスを得るよう進めるべきだろう。

 「魅力的で尊敬できる先生」の育成にしても、「問題解決能力が問われている」教育委員会の変革にしても、その必要性に疑いはない。だが、現場の実情や意見を十分に踏まえながら、改善の目標が具体的なイメージで国民に共有されるように論議を着実に重ねなければならない。

 改正教育基本法の国会審議の際、私たちは、この法によって具体的にどのような新しい学校教育を実現しようとしているのか政府は示すべきだと求めた。それは果たされなかった。

 今から国会に出されようとしている関連法改正案は日々の学校教育活動に直結する。まず改正ありき、ではない。国民にもっと語りかけ、知恵を集めよう。

産経社説1/20
【主張】教育再生 ゆとり教育見直しを評価
 政府の教育再生会議(野依良治座長)の第1次報告内容がまとまった。その中で、昨年12月に発表された骨子案では見送られた「ゆとり教育の見直し」が明記された。授業時間を現行の10%増とし、教科書の改善や学習指導要領の早期改定も行うとしている。

 ゆとり教育を主導してきた文部科学省や自民党文教関係議員の抵抗を退けた結果であり、安倍晋三首相のリーダーシップが発揮されたといえる。

 いじめを繰り返すなど、極端に問題がある児童への出席停止措置を認めることも明記された。いじめ対策に、より多くの選択肢を残すものだろう。指導力に欠ける不適格教員を排除するための教員免許更新制度導入と、今後5年間で2割以上を目標に教員への民間人登用を目指すことも、硬直化が指摘される教育現場に新風を送り込み、生徒・児童の学習意欲を喚起する有効な手段の一つであろう。

 また骨子案で「情報公開を進める」という表現にとどまった教育委員会制度改革では、第三者機関による外部評価制度の新設が盛り込まれた。「さらに掘り下げた議論を」と注文をつけた首相の意向に沿ったものだ。

 もちろん、授業時間を10%増やしただけでゆとり教育で生じた学力の低下が回復できるのかという疑問は残る。とくに、小中学生の学習量は昭和50年代に比べて半減しており、夏休みの短縮や土曜日、平日放課後の補習などで授業時間を増やしても急速な学力向上は難しいとの指摘もある。

 とはいえ、大幅な授業時間増は、いたずらに教育現場の混乱をもたらす危険性がある。生徒・児童、学校の適応具合を見極めながら段階的に引き上げていくことが必要ではないか。

 ゆとり教育により、学習塾などで金をかけ学力を補っている「できる子」と、その余裕がなくて「できない子」との二極分化が進んでいるとされる。経済格差が教育格差につながっているとの見方で、首相も、「公教育を再生していかなければ、格差は拡大していく」と述べている。

 見直しが一日遅れれば、その分だけこうした格差が拡大する可能性は高い。政府には報告に基づいて早急に教育再生関連法案をとりまとめ、一日も早い成立をはかるよう求めたい。

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阿部知子HPこぴぺ

----以下、阿部知子HPよりコピペ----
★☆ 国民保護は地方自治から ☆★
 毎年、藤沢市・寒川町の消防出初め式に呼んでいただいており、今年はご挨拶もさせていただいた。
 もともと小児科医であった私には救急車と救急隊員の皆さんとはかつて一緒に仕事をした間柄である。とりわけまだ若かった30歳代前半は毎日のように患者さんの検査や転院に付き添って救急車に乗っていた。また夜間当直では、次々と搬入されてくる患者さんに付き添う救急隊員からあれこれ情報を得ることが多かった。救急隊員は皆誠実で、どんな時にも一生懸命に患者さんのためにやってくれている。その姿は頼もしくもあり、国民の生命を守ってくれていることを実感してきた。
 「消防」という仕事は、赤い消防車に象徴される「防火」の分野と、火災以外のあらゆる災害からも国民を守る防災、そして白い救急車に象徴される「救急救命」の分野と多岐にわたる。1947年に制定された消防組織法にうたわれる如く、国民の生命・身体・財産を守る役割を担うのが「消防」であり、その責任は各市町村の首長にある。もちろん県や国もそれぞれにその市町村の仕事を支援する立場にあるが、決して指揮・命令系統ではなく、治安などの警察権限とも独立している。
 文字通り、国民の生命・身体・財産を守ることが地方自治に委ねられていることの意味は大変大きく深いと思う。そのための人材は、消防職員以外に各地区の有志の消防団員や防災ボランティアがこれを担うことからもわかるように、根っからの住民参加の組織である。
 安倍晋三政権になってから「国を愛する」・国防の強化などの言葉が氾濫し、あたかも外敵から国民を守るために国家の力=軍隊が必要であるかのように宣伝されるが、実は「軍隊は国民を守らない」という事実は戦争を通して如実に示されてきた。軍隊はもちろんのこと警察も、戦闘のためあるいは犯罪に対しての対処を第一とするため、国民保護は二の次、三の次となる。
 阪神大震災は12年目を迎えたが、国民を災害から守ることを任務とされているはずの自衛隊が、知事の要請を受けて本格救援に向ったのは、数日を経て後のことであった。日本の場合、自衛隊は軍隊ではないし、警察予備隊として出発し、防災のために働くことを任務としてきた特別な生い立ちがあるのに、である。

 こうした経緯もあってか最近は「自衛隊による国民保護」が強調されている。しかし、安倍首相の下で海外派遣を本来任務とするような防衛庁の省昇格が行われ、「軍事組織化」が進む中では、本当の意味での国民保護からますます縁遠くなるのではないか。
 それ故、住民・国民を守るためには、
第1は、まず国の役割としての平和外交、すなわちこれからも平和国家として歩むことを世界に意思として
     示すこと(戦争を引き起こさない)―憲法9条堅持
第2に、環境破壊の進む今日、津波や地震などの予期せぬ大災害に対しても自治体主導のしっかりした防災
     の取り組み(その足らざる部分を県や国が支援)とネットワーク体制の確立。
第3に、人間関係が疎遠となる中で、地域での共生力を取り戻すこと
 につきると思う。
 次々と目の前を通り過ぎていく真っ赤な消防車、そして最新の救命装置を備えた白塗りの救急車の登場を子ども達とともに待ち受けながら、今年一年の市民の息災と安心・安全をしっかり守る消防隊の活動に心からの期待を寄せたい。
阿部知子

-----その次の号-----
★☆ たくさんのご意見をちょうだいして ☆★     
 先回のメルマガには、たくさんのご意見を頂戴致しました。
私自身の表現の足らぬ部分、また事実認識のあいまいさに起因する部分もあったと思います。そこで私の伝えたかったことと合わせ、皆さんからご指摘のあったことも含めて今回のメルマガとします。
 1995年1月17日未明の阪神淡路大震災は、6000人以上の尊い生命を奪い、家屋も街も瞬時に崩壊せしめました。
 この日、私自身は千葉県内の病院で小児科の仕事に追われながら、時折テレビに映る惨状を見て何か自分の予期し得ぬ重大なことが起こったことを感じてはおりましたが、日勤に引き続く夜勤でもあり夜中まで切れ間なく訪れる患者さんの対応に追われていました。
 やっと当直があけた翌18日の9時過ぎに突然、徳洲会グループの理事長である徳田虎雄氏から電話がありました。「何をしている。一刻も早く現地に行け!」というその声に押されるかのように徳洲会グループの医師達と大阪八尾徳洲会総合病院に集合、その後は病院から神戸の垂水病院に移動しましたが、到着したのは19日のことです。途中、大きくひしゃげた高速道路の橋げた、幅広くひび割れた道路など、テレビで送られる画像をはるかに上回る被害状況にそれこそ息を飲みました。
 以降、神戸の垂水病院を拠点に、見渡す限り焼け野原となった長田町や倒壊した家屋を目のあたりにしながら救急車に同乗していました。私自身の専門は小児科であるため、約一週間小学校内に臨時に設置された救援のテントで次々と避難してこられた方々の診療にもあたりましたが、命からがらの思いで逃げて来られた方々の中には、入れ歯すら持ち出すことができず食事も取れないご高齢者や子犬を必死に抱きしめてぼう然としている子供の姿など本当に胸がつまるものでした。
 そんな中でも、小学校の校庭の池にいる亀のまわりには子供達が集まり話を交わす光景もあり、どんな時にもやっぱり学校は地域の希望の場となっていることも実感しました。
 頂戴しましたご意見の中に、自衛隊が必死にがんばっていたことへの感謝が述べられたものも多々ありました。その通りだと思います。
 初動の遅れは、当時被災状況を迅速に把握し自衛隊の出動を要請する自治体側の被害がひどく、知事も含めて身動きがとれなかったこともあると思います。また、それを受ける内閣側の体制も情報収集など不十分でした。後にこの震災に学んで96年5月に内閣情報集約センターが設立されて今日に至っております。
 当時の内閣の最高責任者は村山首相であることから、村山首相の対応の遅れを指摘されるご意見もありますが、1月17日午前10時、国土庁長官を本部長とする非常災害対策本部を設置、午後4時に村山首相は、官邸で緊急記者会見を行い、万全の対策を講じることを表明しました。私を含めてだれもが未曾有の災害に対して、十分な判断や迅速な行動がなしえなかったことについて、多くの教訓が残されたと思います。
 その重い課題を受け止め、今なお癒えぬ被災者の抱える問題を解決するために今後も政治活動に努めます。
阿部 知子

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小泉武夫氏「脂嗜好「食の堕落」は民族の危機」

私の視点 脂嗜好「食の堕落」は民族の危機 東京農業大教授 小泉武夫

 焼酎ブームとよく言われるが、すでにブームを通り越し、日本人の食生活にすっかり定着したような気がする。『健康に良い」とか、「幻の焼酎がある」といった宣伝やロコミが購買心を煽ったことが人気の背景にあるが、日本人の食生活が脂じみてきたこととも深い関係がある。
 醸造酒の日本酒より、蒸留酒で辛い焼酎の方が、肉料理など脂っぽい食べ物にはよく合う。一度口にするとやめられない魔性のような「脂文化」の浸透が、日本人の酒の趣向まで変えてしまったのである。
 この40年あまりの間に、日本人の食卓は、低たんばく、低脂質、低カロリーの食事から、高たんぱく、高脂質、高カロリーの欧米型へと大きく変化した。
海藻、根菜、魚、豆、そしてご飯(コメ)の五つを基本とする和食は、ヘルシーなうえ栄養バランスが理想的で、これらの食べ物によって日本人の体と心が養われてきた。しかし、肉など脂っこいものをたくさん食べるようになり、生活習慣病の問題が出てきた。
  □ □ □
 人間はそれぞれ、長い間の食生活で培われた民族としての遺伝子が組み込まれている。日本人の腸が長いのは、質素な食生活をしてきたため、長くないと栄養を吸収できないからである。これだけ短期間に食生活が激変した民族はほかにないのだから、体と心に驚
くような現象が出てくるのも当然だろう。
 私が最も心配しているのは心の問題だ。日本人がキレやすくなったと言われるが、ミネラルの不足と関係があると思う。ミネラルには興奮状態を抑える働きがある。昔は海藻や根菜などから取っていたが、この半世紀の聞に摂取量が7分の―に減ったという調査結果もある。
 「食の堕落」は、民族の存亡にかかわる極めて重要な問題である。和食が優れた民族食であることを自覚し、食生活の見直しに早急に手をつけるべきである。
 日本の食文化崩壊の背景には、戦後、工業大国になるのと引き換えに、「食べ物は外国からカネで買えばいい」と考えるようになり、農業や漁業を『生命維持産業」として位置づけてこなかったことがある。
 しかし、そうした考えが通用しない時代がやって来た。このところマグロの価格上昇が話題になっているが、米国人も中国人もトロの味を好むようになったからだ。脂っこい魚を求めるのは世界的な嗜好の流れで、銀ダラも導い合いが始まっている。BSE(牛海
綿状脳症)や鳥インフルエンザの影響もあり、世界的に魚の需要が高まっていることも影響している。
 食糧の争奪戦と価格への余波は、魚だけでなく、農産物でも起きている。大豆は中国の輸入増で高値が続いている。ガソリン高騰の影響で代替燃料のバイオエタノールが注目を集め、原料のトウモロコシやサトウキビ(砂糖)などの価格まで上昇している有り様だ。
 食糧の世界的な奪い合いの背景には、これまでの供給国が、『安定供給国」でいられなくなったことも影響している。
  □ □ □
 中国は経済成長で買う側に回り、米国のハリケーンや豪州の干ばつなど、供給国が異常気象に直面するようにもなった。BSEや鳥インフルエンザ、遺伝子組み換えの問題もあるのに、その中で日本がどのように対応していくのかが全く見えない。
 自分たちで食べるものをつくらない民族ほど弱い者はいない。今世紀、食糧は国家の力を示す象徴として位置づけられ、戦略兵器のような存在となるだろう。この国にそうした危機感がないことは、国家として危機的な状況にあると言えないか。
 日本の食糧生産力を強くしていくには、魅力のある産業として復興させ、「生命維持産業従事者」を増やしていくしかない。そのーつとして、若い人たちが現場で学ぶことを提唱したい。地元の食べ物や食糧生産の大切さをしっかり教え、田植えや野菜づくり、家畜の世話などを授業に義務づけたり、普通高校の生徒を農業高校で実習させたりするといった、思い切った発想が必要だろう。
     ◇
 43年生まれ。専門は醸造学、発酵学、食文化論。
 「全国地産地消推進連絡協議会」会長。著書に『食の堕落と日本人」『食と日本人の知恵」など。

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「中華奴隷ではない一市民」様のコピペ

17日
05:46 地震発生
05:50 陸自中部方面航空隊八尾基地、偵察ヘリ発進準備。
05:50 第三十六普通科連隊(伊丹)営舎内にいた隊員約三百人による救援部隊編成開始
06:00 CNNワールドニュース、トップニュースで「マグニチュード7・2。神戸で大地震」と報道。
06:00 村山起床。テレビで震災を知る。
06:20 テレビで急報を知ったダイエー中内功社長出社
06:30 百里基地、偵察のためRF4発進検討するも断念。4ヶ月前北海道東方沖地震でRF4が墜落、社会党の追及で当時の指揮官が更迭されたため。
06:30 中部方面総監部非常勤務体制
06:30 村山、園田源三秘書官に、電話で、状況把握を指示(園田本人は「そのような事実は無かった」と否定)。
06:30 警察庁が地震災害対策室を設置、大阪、京都、奈良などに機動部隊の出撃命令を出す
06:35 第三十六普通科連隊(伊丹)、倒壊した阪急伊丹駅へ伊丹署の要請で先遣隊出動
06:50 陸自第3特化連隊(姫路)非常呼集
07:00 スイス災害救助隊、在京スイス大使館へ、日本政府への援助申し入れを指示
07:00 金重凱之秘書が国土庁防災局に電話で状況確認し、村山に「特にこれといった情報は入っていない」と報告。
07:14 陸自中部方面航空隊八尾基地、偵察ヘリ1番機発進。高架倒壊等の画像撮影。出動要請がないため訓練名目。
07:30 村山総理に一報
07:30 陸自第3特化連隊(姫路)、県庁へ連絡部隊発進
07:35 第三十六普通科連隊(伊丹)、阪急伊丹駅へ48人応援
07:50 石原信雄官房副長官、川崎市の自宅を出発。
07:58 阪急伊丹駅救助活動48人
08:00 官邸、防衛庁に、派遣要請がきているか確認するも、要請無し。
08:00 ダイエーが地震対策会議。中内社長、販売統括本部長にヘリコプターで神戸へ飛ぶよう指示。おにぎり、弁当など1,000食分と簡易衛星通信装置を搭載。
08:11 徳島教育航空郡所属偵察機、淡路島を偵察。「被害甚大」と報告。
08:20 西宮市民家出動206人
08:20 貝原知事、職員の自動車で県庁到着。対策会議開くも派遣要請出さず
08:26 総理、官邸執務室へ(予定より1時間早い)。テレビで情報収集。
08:30 セブンイレブン災害対策本部、被災地店舗へおにぎりをヘリ空輸開始。
08:45 村山「万全の対策を講ずる」とコメントを発表。
08:50 韓国政府、「日本関西地域非常対策本部」(本部長・金勝英=キム・スンヨン=在外国民領事局長)設置
08:50 石原信雄官房副長官到着。「現地は相当酷い」とコメント。
08:53 五十嵐広三官房長官「非常災害対策本部を設置し小沢潔国土庁長官を現地に派遣する」と発表。
09:00 呉地方総監部、補給艦「ゆら」が神戸に向けて出港。
09:05 国土庁が県に派遣要請促す
09:18 村山、廊下で記者に「やあ、大変だなあ」、視察はしないのかとの質問に「もう少し状況を見てから」とコメント。
09:20 総理国土庁長官、月例経済報告出席。地震対策話題無し
09:40 海自輸送艦、非常食45000食積み呉出港
09:40 神戸消防のヘリコプターが上空から市長に「火災発生は20件以上。市の西部は火災がひどく、東部は家屋倒壊が目立つ」と報告。市長は直ちに県知事に自衛隊派遣を検討するよう電話で要請。
10:00 村山、月例経済報告終了後廊下で、記者の「北海道や東北と違い今回は大都市での災害だが、対策は?」との質問に「そう?」とコメント。
10:04 定例閣議。閣僚外遊報告。非常対策本部設置決定。玉沢徳一防衛庁長官には「沖縄基地縮小問題で(上京してきている)大田昌秀知事としっかり協議するように」と指示。震災についての指示なし。
10:10 兵庫県知事の名で派遣要請(実際には防災係長が要請。知事は事後承諾)
10:15 中部方面総監部、自衛隊災害派遣出動命令(村山の指示で3000人限定。到着は2300人)
10:25 姫路の第3特科連隊の幹部2人がヘリコプターで県庁に到着、県災害対策本部の会議に参加
11:00 村山、廊下で会見。記者の「総理が現地視察する予定は?」との質問に、「状況見て、必要があればね」。「総理は行く用意はありますか?」、「そうそう、状況を見て、必要があればね」。
11:00 村山総理、「二十一世紀地球環境懇話会」出席。「環境問題は国政の最重要課題の一つとして全力で取り組んでいく」と発言。
11:00 京都機動部隊が兵庫入り。
11:15 村山、廊下で記者に、山花貞夫前社会党委員長の新党結成問題に関して、「山花氏は自制してもう少し話し合いをして欲しい」とコメント。
11:15 非常対策本部設置(本部長・国土庁長官の小沢潔)
11:30 非常対策本部第1回会議
11:34 五十嵐官房長官、記者に社会党分裂問題を聞かれ、「それどころじゃない」と発言し首相執務室入り。現地で被災した新党さきがけ高見裕一からの電話情報を元に、村山に事態の重大さを力説。
12:00 新党さきがけ高見裕一、現地から官邸に電話。自衛隊増員要請するも、村山「高見は大げさだ」と冷笑
12:00 政府与党連絡会議中、五十嵐官房長官が村山に「死者203人」と報告。村山「え!?」と驚愕。
12:48 淡路島・一宮町役場の中庭に自衛隊ヘリ三機が到着。隊員がオートバイで被害調査を実施。
13:10 渋滞に阻まれていた自衛隊第三特科連隊215人が到着。救助活動を開始。
13:30 防衛出動訓令発令検討するも断念
13:30 大阪消防局隊応援部隊到着
13:50 社会党臨時中央執行委員会が「党内事情より災害復旧を優先すべき」として、山花氏の離党届を保留。
14:07 村山総理、定例勉強会出席
14:30 小沢国土庁長官、現地空中視察へ
15:36 河野洋平外相「総理は人命救助と消火に力を入れるようにといっていた。総理が現地に行くのは国土庁長官からの報告があってからのようだ」とコメント。
15:58 村山、廊下で記者の「改めて聞くが、総理が現地に行く可能性は?」との質問に「明日、国土庁長官から現地の状態を聞いてな」とコメント。
16:00 村山総理、地震後初の記者会見。「関東大震災以来、最大の都市型災害だ。人命救助、救援の万全を期したい」、「近く現地入りする」(初めて現地入りを明言)。5分で終了。
18:00 補給艦「ゆら」が姫路港に入港。緊急物資を積載し、神戸に向かう。
19:50 兵庫県知事、海上自衛隊に災害派遣要請
21:00 兵庫県知事、航空自衛隊に災害派遣要請
筑紫「温泉」発言。火災の猛烈な業火で立ち上る煙を見て。

18日
辻元清美ピースボート現地入り。印刷機を持ち込み宣伝ビラを配布し始める。
「生活に密着した情報をとどける」と銘打つが、内容は、ピースボートの宣伝や、被災した喫茶店主の「国は17日付で公庫の返済分をきっちり引き落としよった」や、韓国基督大学による韓国風スープ炊き出しの話しなど。
08:00 海上自衛隊補給艦七隻が非常用食料10万食と飲料水1620tを積載し呉を出港。
09:46 初の緊急閣議
11:40 海上自衛隊徳島航空隊が海上自衛隊阪神基地に救護用の食料を空輸。
13:00 自衛隊5200人と陸上自衛隊ヘリ65機が王子公園を拠点に救助活動、物資輸送を開始。

19日
村山、記者会見で「高架に木切れ等が紛れ込んでいたが、欠陥工事ではないか?」との女性記者の質問に、「そんなことは後で調べる。今はそれどころではない」と激昂(結局その後の調査なし)。
11:32 村山首相と土井たか子衆議院議長が伊丹空港に到着。
村山土井、ヘリで現地視察。灘区の王子公園陸上競技場に着陸。当時救助に当たっていた自衛隊ヘリには、王子グラウンドヘリポート以外への着陸を禁止していた。
クリントン在日米軍支援申し入れ。救助犬、発電機、航空機、横須賀母港の空母インディペンデンスを救護拠点とした救援活動を申し入れるも、村山拒否。毛布37000枚のみ輸送機で到着。
山口組幹部宅で物資分配
20:00 神戸市に入る国道2号線などを災害対策基本法に基づき一般車両通行を禁止にする。
20日
筑紫現地で、焼け跡で遺留品を探す住民に近づき、撮影するなとの叫びにもかかわらず放映。「住民は感情的になっています」と発言。

21日
筑紫「なぜ行政は、お年よりなどのために車を出せないのか。道路が危ないというが、車はたくさん走ってる。自衛隊の頑丈な車もある。」

18日より市職員10人で救援物資仕分け。交代、休憩無く、過労で次々倒れる。その夜、筑紫「市の対策手ぬるい。個人ががんばってる。3日目までおにぎり一個しか配られなかった」
村山国会で「なにぶん初めてのことでございますし、早朝のことでもございますから、政府の対応は最善だった」(後に全面撤回)
自衛隊艦艇4隻給水活動
新進党海部党首、村山に政治休戦申し入れるも、「政府は国会運営携わる立場ではない」と拒否

24日
村山、(交通制限や物価統制の可能な)緊急災害対策本部設置必要なしと答弁

25日
NEWS23が駒が林公園での右翼による炊き出しに「ああいう連中を、住民はどう思っているんですかね」とけちつける

中華奴隷ではない一市民
韓国より遅れて対策本部作った村山、ダイエーより対処遅れた村山♪
人命救助のヘリの着陸は禁止しておいて、自分が視察の時には陸上競技場にヘリで降りた村山♪
米軍の援助断って被災者見殺しにした村山♪
記者になんども現地入りを促されても突っぱねて逆切れの村山♪

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2007/1/26朝日社説

朝日社説2007年01月26日(金曜日)付

表題『教育再生 見切り発車は危ない』

 教育再生会議の第1次報告を受けて、安倍首相は提言の実現に必要な法律改正案をこの国会に出す考えを表明した。法案づくりを担当する文部科学省は大急ぎで作業を始めた。

 今の教育がさまざまな問題を抱えていることは間違いない。早い改革を願う国民も多いだろう。首相が指導力を発揮しようと意気込むのも理解できる。

 問題は、改革の中身と方向である。

 柱の一つは、教員免許法の改正だ。いまの教員免許に有効期限はないが、これを10年間とし、講習を修了すれば更新する。中央教育審議会はそんな制度を答申したが、教育再生会議は不適格教員を排除するような厳しい更新制を求めた。

 私たちも、教える力のない教師には退場してもらいたいと思う。けれど、教師を萎縮(いしゅく)させ、教職をめざす学生を減らしかねない制度は行き過ぎだ。厳格化にはそうした副作用が心配される。

 学校教育法も改正して、校長の補佐役として副校長や主幹のポストを新設する。教師が雑務から解放され、子どもと向き合う時間が増えるなら結構だろう。

 だが、増員なしで管理職を増やすだけなら、逆に現場の教育力は落ちてしまう。増員予算の裏付けが必要だ。

 もっと心配なのは、教育委員会のあり方を根本的に見直すという、地方教育行政法の改正である。

 現在は都道府県と政令指定都市が持つ教員の人事権を、できるだけ市町村に移管する。その代わり、小さな市町村の教育委員会は統合する。教育再生会議はそう提言した。

 ほとんどの小中学校は市町村が設立しているのに、教師は人事権を持つ都道府県に目を向けがちだ。多くの市町村は、人事権が移れば教師の意識が変わると期待している。

 その一方で、第1次報告は国が教育委員会の基準や指針を決め、外部評価制度を導入するよう求めた。教育長の任命に関与する仕組みの検討も求めている。

 地域がその子どもたちの教育のあり方を決められるようにする分権の方向性と、国の関与を強める方向性が混在している。どちらで進めようというのか、これは重大な問題をはらんでいる。

 実現すれば、教育現場を大きく変えるものばかりだ。それにしては、あまりに議論が不足し、疑問点が多い。再生会議のメンバーにも戸惑いの声がある。

 そんな懸念を振り払い、見切り発車で法案化を急ぐ背景には、夏の参院選をにらんで政策の目玉をつくろうという政権の思惑が透けて見える。下がり続ける支持率を挽回(ばんかい)するためにも、最重要課題と位置づける教育改革で具体的な姿を示したいということなのだろう。

 だが、第1次報告が「社会総がかりで教育再生を」とうたったように、教育とは社会全体で取り組むべき事業である。

 国民や現場の声を幅広く集め、合意をつくる努力がもっと必要だ。それなしに実のある改革はできるはずがない。

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20070514両陛下会見

□ 天皇皇后両陛下の外国ご訪問前の記者会見の内容

1 ご訪問国 : スウェーデン,エストニア,ラトビア,リトアニア,英国
2 ご訪問期間: 平成19年5月21日~5月30日
3 会見年月日: 平成19年5月14日
4 会見場所 : 宮殿 石橋の間

   (宮内記者会代表質問)

問1  天皇皇后両陛下に伺います。今回のご訪問は,長年にわたって交流を重ねてこられたスウェーデン,英国への再訪と,旧ソ連圏のエストニア,ラトビア,リトアニアへの初めての訪問,生物学者リンネの生誕300年記念行事という三つの側面を持っています。それぞれの国に寄せる思いや抱負,ご研究を通じてリンネの業績から学ばれたことなどをお聞かせください。

天皇陛下  3年前,英国のロンドン・リンネ協会から,2007年にリンネ生誕300年を祝うこととなるので,ロンドンのリンネ協会の記念行事に参加できないかとの打診があり,その後,英国政府からの招待がありました。また,昨年に入ってスウェーデン政府からも,やはりリンネ生誕300年の記念行事が行われるとして招待があり,今回,これらの招待にこたえて,両国を訪れることになりました。

 私は皇太子であった1980年にロンドン・リンネ協会から魚類学への貢献ということで,外国会員に選ばれました。外国会員の名簿を見ると,会員は50人で,日本人では植物学の原東京大学名誉教授がおられるだけでした。私にとっては誠に過分のこととは思いましたが,それを励みに研究に努力してきたつもりです。ロンドン・リンネ協会には,会員に選ばれた翌年,当時の皇太子妃と共に英国皇太子殿下の結婚式典参列の機会に訪れました。1986年名誉会員に選ばれ今日に至っています。この度,このような関係にあったロンドン・リンネ協会のリンネ生誕300年の記念行事に出席することをうれしく思っております。

 リンネの今日に残る業績は二名法の学名を創始したことだと思います。学名は属名と種名の結合で成り立っていますが,二名法の学名が創設される以前の学名の種名は,属内の他種から区別される特徴を記述する部分でありました。したがって同一属内に数種があり,幾つかの特徴で他種から区別しなければならない場合には種名の語数が長くなりました。リンネはこのように属名と長短定まらない種名との結合の代わりに,属名と特徴を示すとは限らない一語の種名を結合した二名法の学名を創設しました。そして特徴を示す記述は別項にして,学名から切り離されました。この措置により学名は二語の簡便なものとなり,今日,世界共通の動植物の名称として,学界はもとより多くの人々によって使われています。二語であれば覚えやすく,動植物の話をするとき,学名を使って話をすることもできます。皇居の東御苑にはかなりの数の外国人が訪れています。外国人で植物を見て楽しむ人々のことを考え,和名のほかに学名を付けるようにしています。

 スウェーデンでは,3月に国賓として日本にお迎えした国王王妃両陛下に再びお目にかかるのを楽しみにしております。また到着の翌々日にはリンネが教授であったウプサラ大学で行われるリンネ生誕300年の記念行事に国王王妃両陛下と参列し,リンネの業績をしのびたく思います。この前ウプサラ大学を訪問したのは20年以上前のことで,スウェーデン国王王妃両陛下の国賓としてのご訪日に対する昭和天皇の名代としての答訪で,皇太子妃と共にスウェーデンを訪問したときのことです。ここにはリンネの弟子で,長崎出島のオランダ商館の医師を務めていたツュンベリーも教授として務めていました。ツュンベリーは鎖国の日本へ足を踏み入れましたが,ツュンベリー来日の前年には杉田玄白らでオランダ語から訳した「解体新書」が刊行されるなど蘭学が盛んになり,欧州の医学への関心も高まっているときでした。「解体新書」の訳に加わった医師の中にはツュンベリー帰国後もツュンベリーあてに手紙を出した人もおり,ウプサラ大学でその手紙を見ることができたことはうれしいことでした。ツュンベリーの日本滞在記を読むと,異なった文化の中で育った人々を理解しようとするツュンベリーの温かい人柄が感じられます。

 スウェーデンと英国で行われるリンネ生誕300年の記念行事の間に,エストニア,ラトビア,リトアニアの大統領閣下からのご招待により,この三か国を訪れます。帝政ロシア領であったこれら三か国は,ロシア革命を受けて1918年に独立を宣言しましたが,1940年にはソ連に併合されて独立を失い,第二次世界大戦中は独ソ戦の戦場となって多くの人命が失われました。1991年,ソ連邦の崩壊の過程で,ようやく独立を回復することとなりました。ソ連邦はその後15の独立国になりましたが,これら三か国はソ連邦内からの初めての独立で,当時私どもも大きな関心を持って見守ったことでした。リトアニアが厳しい状況下で独立を果たした翌年,ランズベルギス最高会議議長ご夫妻が日本をお訪ねになり,皇居で皇后と共にお会いしたことが思い起こされます。リトアニアの画家であり音楽家であるチュルリョーニスの展覧会が東京で開かれるに当たり,議長はチュルリョーニスの研究者である立場から訪日されたものでした。私どもも後にその展覧会を見に行きました。

 今回の訪問に当たっては,それぞれの国の苦難の歴史に思いを致し,それぞれの文化に対する理解を深め,我が国とこれら三国との相互理解と友好関係の増進に尽くしたいと思っています。

 研究を通じてリンネの業績から学んだことについての質問ですが,お答えが適切ではないかもしれませんが,分類学の研究を通じて標本を保管することの重要性を学んだということがあります。動植物それぞれの命名規約に,同一種に複数の学名が付けられている場合,古い方の学名を採用することが規定されています。その関係から古い学名を調べるに当たり,1828年に採集された標本を調べましたが,そのように長く保管された古い標本でも色彩の特徴が確認できました。これはリンネの標本がロンドン・リンネ協会に大切に保管されているように,欧米の博物館が研究に役立てるために,標本を大切に保管してきたからです。今日,日本の博物館も標本の保管に関して十分な配慮がなされるようになりましたが,かつては博物館は教育機関としての役割のみが強調され,標本は展示のために利用されていました。国立科学博物館も明治10年に教育博物館として建てられ,標本を含む教育機材が展示されていました。当時,産業の振興は国にとって大変大切なことでしたが,もう少し自然史や分類学に関心が寄せられていれば,例えば田沢湖のクニマスのような絶滅を防げた動物もいたのではないかと残念に思っています。

皇后陛下
 カール・フォン・リンネの生誕300年に当たり,リンネ協会の所在する英国と,リンネの母国であるスウェーデンの両国からご招待を頂きました。陛下の長年にわたる生物学ご研究と深くかかわるこの度のご訪問であり,うれしく同行させていただきます。

 また,この度,この二か国と共に,バルト海に面する三つの共和国,エストニア,ラトビア,リトアニアからも招待を頂き,訪問いたすこととなりました。平成3年(1991年),この三か国の独立回復の報に接したときのことは今も記憶に新しく,この度の訪問により,それぞれの国の人々と接する機会を持つことを心より楽しみにしております。

 スウェーデンの博物学者リンネにつき,私は深い知識を持つ者ではございませんが,分類学をご研究の陛下との生活の中で,リンネは全く無縁の人ではありませんでした。まだ婚約したばかりのころ,陛下は時々私にご専門の魚類につきお話しをしてくださいましたが,そのようなとき,ティラピア・モサンビカ,オクシエレオトリス・マルモラータというように,いつも正確に個体の名を二名法でおっしゃっており,私はびっくりし,大変なところにお嫁に来ることになったと少し心配いたしました。

 ここ5,6年,皇居東御苑の木や草には,庭園課の人たちの手で名札が付けられるようになりましたが,外国の来園者も多いことと,その一つ一つに陛下のご希望で日本名に加え学名も付されています。リンネの考案を基にしてできた命名規約により,世界中の人が共通の名前で自然界のものを名指せることを,すばらしいことと思います。

 エストニア,ラトビア,リトアニアについての知識は,長いこと,この地域の幾つかの地名を,ハンザ同盟と関連して知るという程のものでしたが,昭和60年(1985年)に「バルト海のほとりにて」という一冊の書籍を贈られ,一口にバルト三国と呼ばれながら,それぞれ固有の民族から成り,固有の言語を持つこれらの国々が,二つの大戦の間(はざま)の時代を独立国として自由と繁栄に向かって歩む姿と,その後に経ることになる,長い苦しみの歴史に触れる機会を得ました。

 これら三か国の独立は,平成3年(1991年)のことでしたから,私がこの本を読んでから,約6年後のことになります。独立後程なく,リトアニアのランズベルギス最高会議議長が来日され,かつて本の中で知るようになったこれらの国々が,そのとき急に現実味を帯びて感じられたことを記憶いたします。この度,短時日とはいえ,この三か国を訪問することができますことは大きな喜びであり,この機会にこれらの国の人々が,過去に味わった多くの苦しみを少しでも理解するよう努めるとともに,苦しみ多い時代にも,人々が決して捨てることの無かった民族の誇りと,それを支えたであろうこの地域の伝承文化への理解を深めたいと思います。

 今回最後の訪問地英国では,リンネ協会の行事に臨むほか,思いがけず世界最初の小児ホスピスであるへレン・ハウスの創立25周年の行事にお招きを頂き,参列することとなりました。2年前,このハウスの数名の患者方が,両親やスタッフに付き添われて来日された折にお会いしておりました。ちょうど施設の25周年の年に,陛下とご一緒に英国におりますという偶然があって,お招きに応じることが可能となりました。2年前に出会った子どもたちや付添いの方たち,そしてこのホスピスの創立者であるシスター・フランセスのお顔を懐かしく思い出しつつ,再会の日を待っております。

 ヘレン・ハウスと,その後に加えられたダグラス・ハウスを訪問し,力を尽くして今を生きる子どもたちと,その子らに寄り添う方たちにお会いするこの日は,私にとっても生きるということ,友として人が人に寄り添うということにつき,深く考える一日になるのではないかと思っております。

問2  両陛下に伺います。10日間で5か国を巡る今回のご訪問は移動も多く,過密な日程での長旅となります。陛下は治療を続けられ,皇后さまは先月,精神的なお疲れからとみられる腸壁の出血などにより静養を取られるなど,体調に不安を抱えての旅路となりますが,今回皇后さまが体調を崩されたきっかけやその後の経過を陛下はどのように見守られ,皇后さまご自身はどのように向き合われたのか,ご訪問にあたっての現在のご体調とあわせてお聞かせください。

天皇陛下  皇后は,長年にわたって様々な苦労を乗り越え,私を支え,国内外の多くの公務を果たしてきました。4年前の私の手術のときには病院に泊まって看病を手伝い,入院中も毎日のように見舞いに訪れ,記帳簿を私に見せて国民の快癒を願う気持ちを伝えてくれました。私の健康面での心配に加え,皇太子妃の健康や,前置胎盤で懐妊中の秋篠宮妃のことを気遣うなど,今思うと,随分心配の多い日々を送ってきたのだと思います。この度の病気は,予兆無しに突然に起こり,心配しましたが,幸い病気は週末や祝日も含めて2回にわたる短期間の休養で,公務を休むことなく,健康を回復したことを喜んでいます。

 今回の外国訪問は,それぞれの国での滞在が短く,日程も忙しいものになっていますが,二人とも健康に気を付けながら,訪問の目的を果たしたいと思っています。

皇后陛下  体の変調を公表することには,常にためらいを感じますが,理由を伏せて休むことで実際以上に悪いような憶測を呼ぶようではいけないと思い,この度も発表に同意いたしました。

 心配をおかけいたしましたが,良い経過をたどり,今は元気にしております。医師が発表いたしましたように,この度の病気は痛みや苦痛を伴うものではなく,休養と投薬により軽快するとのことで,3月末の9日間ほどを静養に充てさせていただきました。

 過去に体験したことのない病気で,症状のとれるまで少し不安もありましたが,十分な静養のときを頂き,元の健康に戻ることができました。この間,大勢の方々からお見舞いと励ましを頂きましたことに対し,厚くお礼を申し上げます。

 今回の外国訪問は,五か国を回る忙しいものとなりそうですが,何よりも陛下がご旅行の全行程にわたり,お元気でいらっしゃいますよう念じております。私も陛下のお側(そば)で支障なく務めを果たせますよう,体に気を付けて,お供させていただきます。

問3  両陛下に伺います。両陛下は,皇太子同妃時代から多くの国々を訪問し友好を深められ,即位後も外国訪問や外国賓客を迎えることで年輪を重ねられました。外国訪問を含めた国際交流について,次代を担う皇太子ご夫妻に今後どのようなことを期待されますでしょうか。

天皇陛下  私どもが結婚したころはまだ国事行為の臨時代行に関する法律が無く,天皇が皇太子に国事行為を委任して,外国を訪問することはできませんでした。そのようなわけで,元首である国賓を我が国にお迎えすると,しばらく後に,私が昭和天皇の名代として,それぞれの国を皇太子妃と共に答訪することになっていました。

 私どもの結婚の翌年,昭和35年9月の日米修好条約100周年に当たっての米国訪問は,皇太子の立場で皇太子妃と共にこれを行いましたが,2か月後の11月に,皇太子妃と共にイラン,エチオピア,インド,ネパールを,それぞれの元首の我が国訪問への答礼として行ったときは,昭和天皇の名代として,これを行いました。この4か国訪問が昭和の時代に私が昭和天皇の名代として皇太子妃と共に各国を訪問した始まりでした。この名代としての外国訪問は,国事行為の臨時代行に関する法律が昭和39年に施行された後も続けられ,昭和46年になってようやく昭和天皇,香淳皇后のヨーロッパ諸国御訪問が実現する運びになりました。このご訪問は昭和天皇,香淳皇后にとってもお喜びだったと思いますが,私どもにとっても喜ばしいことでした。天皇の名代ということは,相手国にそれに準ずる接遇を求めることになり,私には相手国に礼を欠くように思われ,心の重いことでした。各国とも寛容に日本政府の申出を受け入れ,私どもを温かく迎えてくれたことに,深く感謝しています。

 昭和50年の昭和天皇,香淳皇后の米国ご訪問以降は,ご高齢の関係で,再び私が名代として皇太子妃と共に外国を訪問するようになりました。その後国際間の交流が盛んになるにつれ,国賓の数も増え,極力答礼に努めたものの,そのすべてに答礼を果たすことが不可能な状態の中で昭和の終わりを迎えました。

 平成に入ってからは,私どもの外国訪問は国賓に対する答訪という形ではなく,政府が訪問国を検討し,決定するということになっています。

 私どもの外国訪問を振り返ってみますと,国賓に対する名代としての答訪という立場から多くの国々を訪問する機会に恵まれたことは,国内の行事も同時に行い,特に皇后は三人の子どもの育児も行いながらのことで,大変なことであったと思いますが,私どもにとっては,多くの経験を得る機会となり,幸せなことであったと思います。それと同時に名代という立場が各国から受け入れられるように,自分自身を厳しく律してきたつもりで,このような理由から,私どもが私的に外国を訪問したことは一度もありません。

 現在,皇太子夫妻は名代の立場で外国を訪問することはありませんから,皇太子夫妻の立場で,本人,政府,そして国民が望ましいと考える在り方で,外国訪問を含めた国際交流に携わっていくことができると思います。選択肢が広いだけに,一層適格な判断が求められてくると思われますが,国際交流に関心と意欲を持っていることを聞いていますので,関係者の意見を徴し,二人でよく考えて進めていくことを願っています。

皇后陛下  私が御所に上がりましたのは,昭和34年(1959年)のことで,そのころには既に戦後の国交回復により日本に各国の大公使が滞在されており,結婚後そうした方たちとの接触のあろうことは知らされておりましたが,海外の訪問については何も伺っておらず,嫁いで数か月後,急に翌年5月訪米の案がもたらされたときには,本当に驚き,困惑いたしました。そのとき私は皇太子を身ごもっており,出産は3月初旬と言われておりました。私も同行を求められており,もし5月の旅行となりますと,母乳保育は2か月足らずで打ち切らねばならず,またホノルルを含め,米国の8都市を2週間で訪問ということで,産後間もない体がこれに耐えられず,皆様にご迷惑をかけることにならないか不安でもございました。自分の申出が勝手なものではないかと随分思案いたしましたが,当時の東宮大夫と参与に話し理解を求め,米国側も寛容に訪問時期を9月に延ばしてくれ,ほっといたしました。

 このときに始まり,これまで陛下とご一緒に52か国を公式に訪問してまいりましたが,そのうち16か国を訪問するころまでは,出産があったり,子どもが小さかったりで,国内の公務の間を縫うようにして執り行われるこのような旅は,もう自分には続けられないのではないかと心細く思ったこともありました。ともあれ,陛下とご一緒に一回一回経験を重ね,その都度経験したことに思いを巡らせ,また心を込めて次の旅に臨むということを繰り返してまいりました。これらの訪問を通じ,私の自国への認識と,言葉では表し得ない日本への愛情が深まり,この気持ちを基盤として,他の国の人々の母国に対する愛情を推し測っていくようになったと思います。今,どの旅も,させていただけたことを本当に幸せであったと思っております。

 外国訪問を含む今後の国際交流につき,皇太子夫妻に何を期待するかという質問ですが,この問題については,きっと皇太子や皇太子妃にこのようにしたいという希望や思い描いている交流の形があると思いますので,それが一番大切なことであり,それに先んじて私の期待や希望を述べることは控えます。

 今は皇太子と皇太子妃が,これまでに積んだ経験をいかし,二人して様々な面で皇室の良い未来を築いていってくれることを信じ,期待しているとのみ申すにとどめ,これからの二人を見守っていきたいと思います。

   (在日外国報道協会代表質問)

問4  天皇皇后両陛下にお伺いします。世界各国の王室に対するマスコミや世間のプレッシャーや期待感が大きいのですが,特に日本の皇室に対してはそうだと思います。振り返ってみて,今まで直面した最も厳しい挑戦や期待はどのようなものでしたか。また,これらの挑戦や期待にどのように対応してきましたか。

天皇陛下  振り返ると,即位の時期が最も厳しい時期であったかと思います。日本国憲法の下で行われた初めての即位にかかわる諸行事で,様々な議論が行われました。即位の礼は,皇居で各国元首を始めとする多くの賓客の参列の下に行われ,大嘗祭も皇居の東御苑で滞りなく行われました。これらの諸行事に携わった多くの人々に深く感謝しています。また皇后が,この時期にいつも明るく私を支えてくれたことはうれしいことでした。

 私は,国民の幸せを願ってきた昭和天皇を始め歴代天皇の伝統や,天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるという憲法の規定を念頭に置きながら,国や国民のために尽くすことが,国民の期待にこたえる道であると思っています。

 今日,大勢の人々に励まされながら,このような天皇の務めを果たしていることを,幸せなことと思っています。

皇后陛下  まだ学生であった一時期,セリエ博士のストレス学説が日本でも盛んに取り上げられていた記憶がありますが,私の若いころ,「プレッシャー」という言葉が社会で語られるのを聞くことはまだ余りありませんでした。戦争で多くを失った日本が,復興への道をいちずに歩んでいたころであり,もしかすると当時の日本人全体が強いプレッシャーの下で生きていたのかもしれず,ある意味で社会がプレッシャーを共有し,これを当たり前に感じていた時代であったのかもしれません。

 このような時代の続きであったためか,結婚後新しい生活に入り,多くの要求や期待の中で,一つの立場にある厳しさをことごとく感じる日々にあっても,私がそれをプレッシャーという一つの言葉で認識したことは無かったように思います。ただ人々の期待や要求になかなかこたえきれない自分を,悲しく申し訳なく思う気持ちはいつも私の中にあり,それは当時ばかりでなく,現在も変わることはありません。

 また事に当たっての自分の判断になかなか自信が持てず,これで良いのかしらと迷うことも多く,ある時のある事件が自分にとり大きな挑戦であったという以上に,自分の心の中にある悲しみや不安と折り合って生きていく毎日毎日が,私にとってはかなり大きな挑戦であったと言えるかもしれません。

 心が悲しんでいたり不安がっているときには,対応のしようもなく,祈ったり,時に子どもっぽいおまじないの言葉をつぶやいてみたりすることもあります。不思議に悲しみと不安の中で,多くの人々と無言のうちにつながっているような感覚を持つこともあります。この連帯の感覚は,本当に漠然としたもので,錯覚にすぎないのかもしれませんが,私には生きてきたことのご褒美のように思え,慰めと励ましを感じています。

問5  天皇皇后両陛下に伺います。ウィリアム・シェークスピアの作品「ヘンリー5世」の中で,国王が普通の人に成りすまして,市民の考えや感情を理解するために,その中に入っていくという有名な場面があります。もし,両陛下が,お供の方も,警護の方もなしに,ご身分を隠して一日を過ごす事ができるとしましたら,それぞれどちらにお出かけになろうと思われますか,また,何をなさりたいですか。

天皇陛下  シェークスピアの「ヘンリー五世」については,昔,映画で見た記憶があります。まだ平和条約が発効する前のことで,英国の対日連絡事務所の大使に当たるガスコイン政治顧問の招きで,この映画を見ました。フランス国王がヘンリー五世にテニスボールをおくる場面や,重武装のフランスの騎士が体を釣り上げられて馬に乗り,一団となって柵(さく)を巡らせた英国軍の陣地に向かっていく場面など記憶に残っていますが,質問の場面の記憶はありません。

 平和条約が発効した翌年英国女王陛下の戴(たい)冠式に参列し,その前後に欧米諸国を訪れました。戴(たい)冠式や関連する諸行事では大勢の参列者の一人という立場で参列者と接し,身分を隠していたわけではありませんが,大変自由で楽しいときを過ごしました。あるレセプションでは,米国の代表マーシャル元国務長官が私への紹介をルクセンブルクの皇太子に頼み,その結果,ご自身も私とは初対面のルクセンブルクの皇太子からマーシャル元国務長官を紹介されるという面白いこともありました。戴(たい)冠式には外国元首は参列しませんが,後に国王になった方は何人か参列されました。先のルクセンブルクの皇太子も後に大公となられました。戴(たい)冠式で私の隣に座った方はつい最近亡くなられたサウジアラビアのファハド国王であり,当時19歳であった私と最も年齢の近かった参列者は,今のベルギー国王でした。

 身分を隠して何かをするということで,今,私の頭に浮かんでくることはありません。

 私は自然に触れたり,研究をしたりすることに楽しみを覚えていますので,そうした時間がもう少しあれば非常にうれしいと思っています。今度の外国訪問でも,もう少し時間があれば,田園地帯を専門家の人と動植物を見ながら歩いてみたいと思いますが,忙しい日程の旅行ですし,帰るとすぐ東京で行事がありますので,そのような計画はしていません。皇后は東京に戻った翌日,国際看護師協会のレセプションがあり,週明けには皇后と私の出席する原子核物理学国際会議の開会式とレセプションがあります。

 その後葉山で数日休養を取るつもりです。葉山では浜辺をよく歩くのですが,地元の人やたまたまその日に遠出して来た他の地域の人々など,様々な人々と出会います。今年の冬に訪れた葉山でのことでしたが,夕日が富士山に映えて美しく,その美しさを大勢の人々と分け合うように見ていたときの皇后は本当に楽しそうでした。私どもはまた浜とは反対の,川に沿った山道もしばしば訪ねますが,その道にはサンコウチョウが巣をつくっているところがあり,それを見に来る鳥の好きな人々とよく出会います。巣から尾だけ出しているサンコウチョウ,杉林の間を長い尾を引いて飛ぶサンコウチョウなどを眺め,見に来た人々と楽しい一時を過ごしたこともありました。

 皇后も私も身分を隠すのではなく,私たち自身として人々に受け入れられているときに,最も幸せを感じているのではないかと感じています。

皇后陛下  記憶に誤りがあってはと思い,大学の図書館から本をお借りして久しぶりに読みました。

 ヘンリー五世が英軍の陣営内で,身分を明かさずに,通りすがる兵士たちと話を交わし,そこから人々が彼らの王に対して持っている気持ちを知ろうとする場面が質問の導入部のところだと思います。

 質問の本体である,身分を隠し好きな所で一日を過ごすとしたらどこで何をしたいか,ということに対しては,意外と想像がわきません。以前,都内のある美術館で良い展覧会があり,是非見たいと思ったのですが,大きな駅の構内を横切ってエレベーターの所まで行くため,かなりの交通整理をしなくてはならないと聞き,大勢の人の足を止めてはとあきらめたことがありました。このときは,そこを歩く間だけ透明人間のようになれたらなあ,と思いましたが,これは質問にあった「身分を隠して」ということとも少し違うことかもしれません。

 そこで思い出したのですが,以前東京子ども図書館の会合にお招き頂いたときに,当日の出席者を代表して,館長さんから「かくれみの」を頂きました。日本の物語に時々出てくるもので,いったんこれを着ると他人から自分が見えなくなる便利なコートのようなもので,これでしたら変装したり,偽名を考えたりする面倒もなく,楽しく使えそうです。皇宮警察や警視庁の人たちも,少し心配するかもしれませんが,まあ気を付けていっていらっしゃいと言ってくれるのではないでしょうか。まず次の展覧会に備え,混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし,その後,学生のころよく通った神田や神保町の古本屋さんに行き,もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います。

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