生老病死の先頭は「生」なんですね…
今回は単なるのんべのぼやきです…(なお、少し前に書いた文章です)
「生老病死」とは、仏教で言う四苦です。四苦八苦の四苦。(ついでに八苦とは、四苦に加え怨憎会苦(おんぞうえく)、愛別離苦(あいべつりく)、求不得苦(ぐふとっく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)らしい)
生老病死の先頭は生。ちょっと不思議だけど、やっぱり先頭でいいのかな。
先日、親戚の葬儀に参列しましたが、精神的に大いにしびれました。年寄りの葬式ならいいですよ、順番ですから。一休禅師がめでたい言葉を請われて『親死子死孫死』と書かれたこと、つくづくそう思います。でも、若いおかあさん。下の子供は未就学。どう言ったところで結局は寿命、人間の力でどうになるものでもない。泣いて「あきらめる」しかないけど…
小さな子供はなんだかわかりません。葬儀の最中もニコニコしているのを見ると…翌日になれば「おかあさんはいつ帰ってくるの」でしょうし…これが一番つらいですね。
年配の方がぽつりと仰せになりました。長生きすると、こういう哀しいことに遭ってしまうんだね、と。
生とは、死とは。何なのか、私にはわかりません。ただ、大自然(サムシンググレート)から意識が借りている身体は、空気や土、つまり大自然に戻ります。きっと大自然にお返しするのでしょう。それまでは好むと好まざるとに関わらず生きるわけです。そういえば、三四郎さんの副題を思い出しました、「死ぬまで生きる凡人の戯言」です。「死ぬまで生きる」という言葉の深み、葬儀で感じた気がします。
寿命を迎えた方は、たぶん生きる使命を果たされたのでしょう。その使命が何か、生きている人間にはわかるはずもない。お迎えがいつ来るのかもわからない。でも、お迎えが来て、初めて知るのかも知れません。残された家族は生身の人間、なにもわからず泣くしかない。でも、大自然のなす事が、無意味なはずはないでしょう。きっと家族が残されたことで、はじめてできる使命があるのでしょう。
「お迎えが来る」は日本人の伝統的死生観。失いたくないものです。ひょっとして、とっくの昔に失われているかも知れないけど…もしそうなら哀しい…
わけわからない文章、ごめんなさい。のんべがしびれていることだけ、お察し頂ければ…
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コメント
多くの日本人が「オノレは死ぬことはない」と錯覚して久しいです…馬鹿者です。
明日死ぬかも知れぬ、と一日一日精一杯生きる事の大切さを噛み締めます。若い人の訃報に接するたびにさう思ふやうになりました。
投稿: 葦原屋 | 2009年7月 9日 (木) 03時01分
葦原屋さん
死は隣り合わせのものなのに、最近の日本人(もちろん私も)はそれを必要以上に遠ざけていますね。おかげで仰せのようなつまらん錯覚をするようになってしまいました。9条さえ守れば平和で居られるという平和呆けと相通じるものがあります。
>明日死ぬかも知れぬ、と一日一日精一杯生きる事の大切さ
まことに仰せの通りです。今回痛感しました。
投稿: 練馬のんべ | 2009年7月 9日 (木) 07時38分
最近私は、子育てをするのに「死」を意識しています。
ひとつは、私もいつか死ぬということ。だから、伝えておかなければならないことは、出来る限り伝えておこうと思っています。
もうひとつは、子供達だって、いつ死ぬかはわからないということ。いつその日がきても良いように、充実した楽しい日々を過ごして欲しい。でもその日はずーっと先かもしれないですから、アリとキリギリスのキリギリス的な「楽しい日々」ではなく、毎日少しずつでも何か得るものがあり成長があるように過ごして欲しいと考えています。
ですから、キリギリス的なゆとり教育には反対ですし、逆に良い大学に入るためにいろいろなものを犠牲にして勉強ばかりすることにも反対。バランスよく、いろんなことを経験して欲しい。欲張りな母親ですね。(笑)
こうしたことは、やはりのんべさんのように身近な人の死や、子供や自分自身の病気などによって、考えるようになりました。
投稿: milesta | 2009年7月 9日 (木) 08時55分
milestaさん
すばらしい!
>バランスよく、いろんなことを経験して欲しい。
>欲張りな母親ですね。(笑)
私も同じくらい欲張りな父親です(笑)
>こうしたことは、やはりのんべさんのように身近な人の死や、
>子供や自分自身の病気などによって、考えるようになりました。
長い人生、不幸は必ず起きます。逃げるのもいいけど、たまには正面から向き合うことも大切ですね。
投稿: 練馬のんべ | 2009年7月 9日 (木) 21時42分