青葉慈蔵尊(大宮)での慰霊祭(21日正午)に参加しませんか
(近づいてきたので再掲)青葉慈蔵尊での慰霊祭のお誘いメールを転載します。(住所等は一部修正しました)
---転載ここから---
戦後64年当時を知る人も高齢になり少なくなっています。
満州の地で悲しくも壮絶な自決を遂げた若き乙女たち、何故に死を選んだのか、何故、慈蔵尊が建立されたのか。その由来記を添付いたしました。建立に奮闘された堀喜美子婦長さんもすでに亡くなり慰霊祭と言いましてもここ数年は数人程のさびしいものとなっているそうです。10年前初めてお誘いを受けましたが8人ほどでした。
日本赤十字より派遣されて「満州赤十字」に所属していたというだけで「日本」の従軍看護婦として扱われず、靖国神社にも祀られていないのです。
「私たちは、あなた達を決して忘れていません」という思いを届けたいと思います。
慰霊祭 6月21日(日曜日) 12時~13時
青葉園「青葉慈蔵尊」
JR大宮駅西口 西武バス5番乗り場「佐知川原行き」約8分「青葉園」下車
---転載ここまで---
メールに添付されたお話、涙なしには読むことができません。読むときはどうか自室で。通勤電車などでは決して読まないように(苦笑)。
慰霊碑のある地は大して遠くはありません。6月21日は所用があり、その時間次第で行けるかどうか微妙なので、まずはその前に行ってみよう、と思った次第。
NHK抗議デモの日、のんべはやや早起きして埼玉大宮、国道17号新大宮バイパス近くの青葉園へ。のんべは子供の頃、大宮に住んでいたとはいえ駅の反対側(氷川神社の近く)なので、こちらは全く馴染みのないところです。
駅からのバスは1時間に3本程度(時刻表)、しかも各所で渋滞するため、時間は結構かかります。でもまあ、12時集合なら11:32のバスなら普通は間に合うでしょう。
(4番乗り場の「西遊馬/川越グリーンパーク行き」でも「青葉園入口」は通りますが、そこから青葉園までは徒歩10分近くかかる上、ややわかりにくいのでおすすめできません)
青葉園は明るく広い公園墓地。広いのでどこにあるのだろう?と心配になりましたが、大きな案内板があるので大丈夫です。(入口の写真、真ん中の木の左が案内板です)
また、その右側には(写真左から)、乃木大将の像、国旗掲揚塔、英霊追悼塔があります。さすがは初代理事長、故・吉田亀治氏が山下奉文将軍の副官を務めただけのことはあります。
さて、案内図に従って行くとすぐに見つかりました。赤十字の看護帽を左手に持って微笑むお慈蔵様。(その隣には山下奉文将軍のお墓)
ソ連兵に辱められるより死を選んだ看護婦のみなさま。当時、同じように自決した女性が多かったと聞きます。その心に思いを致せばやはり涙。静かに参拝、慰霊。どうかみなさま、安らかにお眠り下さい。
悲劇は満州だけではありません。内地では無差別大虐殺の大空襲や原爆。満州や樺太でのソ連兵による蹂躙。沖縄の自決。東京「裁判」という名の復讐劇。すべては戦争に負けた悲劇です。
二度と戦争に負けてはいけない。戦争をしないためには、外国が日本に戦争を仕掛けよう、という気を起こさせなければいい。自衛力と反撃力を飛躍的に強化すればいい。憲法9条とは、相手をその気にさせる、戦争大好き条文。平和を愛する日本人は早速廃棄すべき。戦争で犠牲になった方に対する供養は、平和で美しい日本を将来に残すこと。今の日本の有様では申し訳ないなあ…
お慈蔵様を前に、そんなことを思ってました。
PS.メールはのんべがいつも大変お世話になっている(感謝!)Aさんが、その知人のBさん(当時のんべは知らない方)からもらったメールを転送してくれたものです。ところが、NHK抗議デモのゴール地点の狭い公園で、大混雑の中、偶然AさんとBさんにお会いできました。ひょっとしたらお慈蔵様に喜んでいただけたのかも知れません。
PS2.自決事件は嘘という説もあります。嘘をつく理由も利点も見あたらず考えにくいのですが、一応紹介しておきます。
続きに「青葉慈蔵尊由来記」
青葉慈蔵尊由来記
あなたは知っていますか。赤十字看護婦として従軍し、終戦後に異境の地満州で悲しくも壮絶な自決を遂げた大和撫子達の事を。
昭和二十年八月九日突如、日ソ中立条約を破ってソ連軍の満州侵略が開始され、国境に近い関東軍野戦病院で軍医の夫と共に勤務していた堀喜美子婦長は、三十四名の従軍看護婦と二人の幼児と共に急遽今の長春への移動を命ぜられます。堀軍医中尉とは今生の別れとも知らず。暗澹たる日々の中、帰国の望みをいだきながらも第八紅軍病院で一か月二百円の給与で勤務する事になりました。
明けて二十一年の春ソ連の陸軍病院から三名の看護婦を派遣せよという命令がきました。一ヵ月だけの約束で、月給は三百円を支給するとあるが、堀婦長は胸の不安を消す事が出来なかった。しかし、戒厳令下の占領軍の命令を拒否したなら、長春三百人の日本人が皆殺しにされる恐怖がありました。ようやく大島はなえさん、細井たか子さん、大塚てるさんの三人を選び派遣しました。 しかし予定の一か月が過ぎても帰って来ないうちに、また三名の追加の申しこみが来て、やむを得ず、荒川静子さん、三戸はるみさん、澤田八重子さんの三名が送りだされましたが誰ひとり帰ってきません。
そこへまた三回目の命令である。もうこれっきりとしぶしぶまた井出きみ子さん、澤本かなえさん、後藤よし子さんを送ります。しかしまたしても、四回目の命令は我慢の限界であった。敗れた者の情けなさ、しかたなく三名を選び、送る前日の夜であった。扉口によろめき倒れかかって来た傷だらけの女性が裸足でいるではありませんか。何と第一回に派遣した大島はなえ看護婦ではありませんか。脱走したときに後ろから撃たれたのでしょう、十一発の銃創の他に、背中に鉄条網をくぐった十数本の傷が血を吹いてみみずばれになっています。彼女は堀婦長に抱かれながらほとんど意識を失いかけている臨終の眼を無理やりひきあげて、次の様に語りました。
「私たちはソ連の病院に看護婦の仕事で行ったのに、行った日からソ連将校の慰みものされ、否といえば殺されます。殺されるぐらいはかまいませんが、次々と同僚の人たちがやって来るのを見て、何とか知らせなければ死んでも死にきれませんので、厳重な監視の眼を盗んで脱走してきました。」決死の覚悟で逃れてきたこの看護婦の話に、堀婦長は噴水のように涙が後から後からあふれだしました。
「婦長さん‑!もう後から人を送ってはいけません。お願します」と言う言葉を最後に息を引き取ったのです。翌日野辺送りを済ませ、髪の毛と爪を箱に納め看護室に安置して一同で思い出話をしてお弔いを済ませます。しかし翌日の月曜日九時を過ぎても誰も出勤して来ないのです。婦長はハッとして夢中で三階の看護婦室に駆け上がって行きました。入口には一同の靴がきちんと揃えてあり、そして二十二人の看護婦が二列に並んで眠っています。満州赤十字看護婦の制服に制帽姿で、両手を合わせて、合掌し脚は紐できちんと縛ってあります。シーンとした死の部屋でどの顔も美しく制服制帽こそ長い間の従軍につぎが当たり色褪せていますが、きちんと着ています。そして遺書にはこう書かれていました。
「二十二名の私たちが自分の手で命を絶ちます事、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑と深くお詫び申しあげます。私たちは敗れたとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。たとい命はなくなりましても、私共の魂は永久に満州の土にとどまり、日本が再びこの地に還ってくる日、御案内いたします。その意味からも、私どものなきがらは土葬にしてこの満州の土にしてください。」最後に全員の名前がそれぞれの手で記されてありました
自決は年長の井上鶴美さんが皆に青酸カリを与えて一同の死を見届けた上、最後に服毒、彼女だけは断末魔の表情がありました。
彼女たちはボイラー室で私物を燃やし、汚れ物一枚残さず、日本女性の身だしなみと覚悟のほどが偲ばれるものでした。
四十九日を迎え堀婦長はお供えものを作る為街へ粉を買いに出掛けた時に、デパートの地下室のダンスホールに騙されていった彼女たちが居ることを知ります。「こんな所でこんなことをしないで、帰ってきなさい」と極力勧めても、うつむいて肩を震わせ涙ながらに、すぐに梅毒を移された事。いまでは大分悪化して、患部は馴れているはずの堀婦長も全身総毛立つほどでありました。「この体でどうして日本に帰れましょう。暴行の結果移されたこの恐ろしい性病を私はソ連軍の一人でも多く移してやるつもりです。これがせめてもの復讐です。」と決然と言い張る彼女たちに返す言葉もなく別れるのでした。
昭和二十三年九月突然帰国命令がでます。急いであのダンスホールにいき六人に「今夜七時に南新京駅へ集まるのよ」と話します。彼女たちは「必ず参ります」としかし、引き上げの貨車が入り婦長は二人の子供と乗った時やっと、制服制帽の荒井、細井、後藤さん三人の姿がみえ、「あと三人は?」「後から来ます。これ食糧の足しにしてください」と大きな包みを差し出しました。三人の姿が視界から消えてものの一分もしないうちに、「バーンという銃声、続いてもう一発」の銃声が鳴った。誰かが貨車の下の方だとさけんだ。何ごとかと堀婦長が立ち上がろうとした時、「婦長さぁん、さようならぁ、、、」という細井さんの声がきこえると同時に三発目の銃声が鳴った。反射的に飛び降りた堀婦長は「うおぅー」と狼のような声で駆けよると、細井さんの手には拳銃が握られていた「わかる、わかるよう。あんたたちこうする外なかったのね。こうしなければあの忌まわしい記憶から逃れる術がなかったのね。ごめんね、、、早く楽になって、今度はもっと強い運を貰って生まれて来るのよ」線路の上に座り嗚咽の中で合掌し遺髪をと思った矢先無常にも、発車の汽笛が鳴り車上の人となった。
死線を越え漸く祖国に辿りついたがそれからがまた大変であった。二十二柱の遺骨を祀るところを日赤や国に掛け合い奔走したがいずれも冷たく拒否されたのです。働きながら慰霊のために貯めていた貯金を信頼していた人に騙されたり、しかしこの世は鬼あり仏ありでこの話をきいた青葉園の理事長吉田亀治氏。山下奉文将軍の副官を務めた方が青葉園の一角に地蔵尊を建立してくれる事になったのです。左の掌に赤十字の制帽を載せて微笑んでいる慈蔵尊を前に、私はこの一瞬の為にこそ生きてきた命であった。
堀喜美子氏著 「従軍看護婦の集団自決」より
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