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2009年4月29日 (水)

転載:復興への3万3千キロ

Hinomaru

復興への3万3千キロ』伊勢雅臣氏「Japan On the Globe(136) 国際派日本人養成講座」H12.04.29

今日は昭和の日。先帝陛下ご生誕108年です。

大東亜戦争敗戦後の先帝陛下のご巡幸。これが戦後日本復興の原点、という意見に大いに賛成します。この話、何度読んでも涙ぼろぼろで、昨日電車の中で読んでいたときもそう。中年のオジサンが車内で目をウルウルさせている光景、異様だったことでしょう(苦笑)、読むのは自宅にしましょう。

それにしても、敗戦国の「王様」が国民を励ます。国民は陛下を大歓迎、大喜び。これが復興の原点になる。欧米人には全く理解不能だったことでしょうね。

0330_shirakogawa 天皇は王様でも皇帝でもなく、日本そのもの。桜、瑞穂、富士山、日本人、日本列島、そして天皇、みな日本そのもの。現人神かと問われれば、そうでしょう。桜も神、瑞穂も神、富士山も神である、という意味で正しい。もちろん「GOD」ではない。

どんな時代でも、天皇に取って代わろう、という権力者はいませんでした。そりゃあ当たり前。天皇は日本であり、日本の支配者ではないからですね。

Musashino_goryouまあ、のんべの無駄話はこの辺にしましょう、ここから本文です。(写真は先帝陛下が眠られる武蔵野御陵)

本文の前に一言。先帝陛下、ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい。天皇陛下、ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい。日本(ニッポン)、ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい。

---以下、転載---

■1.石のひとつでも投げられりゃあいいんだ■

--ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。--

--ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。--

--それが生きた民主主義の教育というものだよ。--

  昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。

 しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものだった。昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。

 イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。

 日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。

 イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?

 欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。

■2.全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励ましたい■

 昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、敗戦直後、昭和20年10月であった。宮内府次長加藤進氏に次のように指示された。

 この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまつたく考へることなくやってほしい。宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。

 御巡幸の打診を受けた占領軍総司令部は、冒頭で紹介したような魂胆もあって、許可した。

■3.「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」■

 昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・川崎工場であった。食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産していたが、空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧に努めていた。

 一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。感極まって泣いているものも多かった。案内していた森社長は、天皇が身近な質問ばかりされるので、宮中で安楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、と急に深い親しみを感じた。

 二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。大空襲で一面、焼け野原である。新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こった。昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、車道にまでなだれこんだ。これ以降、巡幸される先々で、このような光景が繰り返された。

■4.あつさつよき磐城の里の炭山に■

 昭和21年には、関東、東海地方の各県を廻られ、22年6月には、大阪、兵庫、和歌山。そして8月の酷暑の中を東北全県の巡幸を希望された。側近が驚いて、涼しくなってからでは、と延期を願ったが、「東北の運命(食料の増産)は、真夏にかかっている。東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励してやりたい」と許されなかった。

 敗戦直後で、宿舎がままならず、列車の中や、学校の教室に泊まられた事もあった。「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われて、行幸を続けられた。

 出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地福島県の常磐炭坑では、地下450mの坑内を歩かれ、40度の中を背広、ネクタイ姿で、上半身裸の鉱夫たちを激励された。深い坑内で万歳の声が轟いた。この時の御製(お歌)である。

  あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人をををしとぞ見し

■5.浅間おろしつよき麓にかへりきて■

 この2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に出られた。最初に浅間山の初雪の中を2キロも歩かれて、山麓の大日向開拓村を訪問された。大日向村は満洲への分村移民を全国で最初に実行した村である。しかしソ連の満洲侵略により、移民694名中、ようやく半数の323名が生き残って、村に帰ってきた。そして標高1095mの荒れ地を切り開いて、入植していたのである。

 天皇をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙でとだえた。昭和天皇のお顔も涙に濡れた。

  浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人とふとくもあるか

■6.老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて■

 この年、11月から12月にかけてには、さらに鳥取、島根、山口、広島、岡山をまわられた。島根県では新川開拓村で3万人の奉迎に応えられた後、伊波野村で農作業をご覧になられた。

 農業会長が、働いている老夫をさして、「我が子を二人とも失いましたが、村人の助けも得て、屈することなく働いております」と説明すると、天皇は次のようなお言葉とお歌を賜った。

 この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産に懸命に努力する老農の姿を見、一方又、これを助ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるものがあった。このやうな涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。いろいろ苦しいこともあらうが、努力を続けて貰ひたい。

  老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひていそしむすがたたふとしとみし

■7.ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ■

 12月5日、広島に入られる。広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に会われた。原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして、目頭を押さえられた。周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣く。

 爆心地「相生橋」を通過されて、平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7万の奉迎を受けられた。周囲には黒こげの立木、あめのように曲がった鉄骨が残る中で、天皇はマイクで次のように語られた。

 このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思ふ。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献せねばならぬ。

  ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなおる見えてうれしかりけり

 この中国地方行幸にお目付役として同行していた占領軍総司令部民政局のケントは、原爆を落とされた広島の地ですら誰一人天皇を恨む者がいないことに、ただただ驚くばかりであった。

 もともと天皇制廃止を目論んでいた民政局は、兵庫県で小学生達が禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違反」であるとして、以後の御巡幸中止を命じた。

 しかし、御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会決議が相次ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされた模様で、翌々年に再開が許可された。

■8.子らに幸あれ■

 昭和24年5月18日から6月10日にかけては、九州全県を巡幸された。5月22日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮があった。孤児たちの中に、位牌を二つ胸に抱きしめていた女の子がいた。

 昭和天皇は、その女の子に近づかれて、「お父さん、お母さん?」と尋ねられた。「はい、これは父と母の位牌です」とはっきり返事をする女の子に、さらに「どこで?」。
   
 「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。母は引き上げの途中病のためになくなりました。」

 天皇は悲しそうな顔で「お寂しい」と言われると、女の子は首を横に振って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にいったら、きっともう一度会うことができるのです。・・・」

 昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫でながら、「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と言われた。数滴の涙が畳の上に落ちた。

「お父さん」、女の子は小さな声で昭和天皇を呼んだ。

みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ

■9.天皇陛下さまを怨んだこともありました■

 因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。「どなたが戦死をされたのか」

 「息子でございます。たった一人の息子でございました」声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」

  「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。・・・天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」

 老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けていた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。

 引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。

 天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。
       
 この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」

 シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。

■10.復興のエネルギー■

 九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも6、7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになった。

 御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8年半の間に昭和天皇は沖縄をのぞく、全都道府県をまわられ、お立ち寄り箇所は1411カ所におよんだ。奉迎者の総数は数千万人に達したであろう。

  戦のわざはひうけし国民を思ふこころにいでたちてきぬ

  わざはひをわすれてわれを出むかふる民のこころをうれしとぞ思ふ

 国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし (*なりはひ=しごと)

 大日本帝国が崩壊して、始めて国民は間近に天皇を拝する機会を得た。驚くべき事に、それは人々と共に悲しみ、涙を流す天皇であった。一人ひとりが孤独に抱えていた苦しみ、悲しみに、天皇が涙を流された時、人々は国民同胞全体が自分達の悲しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、そこからともに頑張ろう、という気持ちが芽生えていった。戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれた。

 昭和63年9月、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。40数年前の御巡幸で昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。

 昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われた。医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

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コメント

天皇陛下をお迎えしたのは、もう60年近く前のことになりますね。小学4年か5年のころ佐賀県武雄小学校の近くでのことが薄っすらと思い出されます。。

投稿: おっさん | 2009年4月29日 (水) 09時04分

 このご巡幸のお話はこの五年くらい毎年この日に成ると、何処かで読んでいる様な気がいたしますが、毎年、涙が止まりません。

 最後にある、「モゥ ダメか」が、先帝陛下のみ意の全てを語って居る様に感じます。

 思えば、沖縄は、広島や長崎と同じく、特別な戦災を受け、そして、戦後に至も復帰が適わなかった、県民の心に蟠りが有るとすれば、陛下のご巡幸の域外にされた事も大きな一因に成っては居なかっただろうか。

 陛下のみ意に思いを致せば、沖縄巡幸を果たせなかった事は、陛下の大きな心残りで有らせられたのは容易に推量出来ることです、そして、加えて云えば、グアム、サイパン、テニアンの地でも、多くの軍民が犠牲となりましたから、そちらの方へもお心を遺して居られたでありましょう。

 それらの全てを、今上陛下と皇后陛下が果たした事は、今上陛下が、先帝陛下の御遺業をお引き継ぎになられ、先帝陛下のご無念を晴らした事になります。

 青いサイパンの海と空に映える慰霊塔の前に立たれ,献花為された両陛下のお姿が、目に浮かびます。

 是等のご業績を鑑みるに、我々が日本の皇室の方々に寄せる敬慕・崇敬の念に、皇室の方々が全力で是に応えて居られる様がありありと感じられます。

 この日が来て。陛下の国民を思いやるみ意に触れる時、私は「日本人に生まれてて好かった」と心の底からソウ思います。

投稿: ナポレオン・ソロ | 2009年4月29日 (水) 09時08分

おっさん様
それは素敵な思い出ですね。のんべは昭和38歳(笑)ですから、まだ生まれるはるか前のことです。

投稿: 練馬のんべ | 2009年4月29日 (水) 09時28分

ナポレオン・ソロさま
>「モゥ ダメか」が、先帝陛下のみ意の全てを語って居る様に
同感!

>沖縄…県民の心に蟠りが有るとすれば、陛下のご巡幸の域外に
>された事も大きな一因に成っては居なかっただろうか。
さすがのご慧眼、大いに納得です。

>沖縄巡幸を果たせなかった事は、陛下の大きな心残り…
>グアム、サイパン、テニアンの地…
>全てを、今上陛下と皇后陛下が果たした事は、今上陛下が、
>先帝陛下の御遺業をお引き継ぎになられ、先帝陛下のご無念
>を晴らした事になります。
仰せの通りと思います。

先帝陛下、ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい!
今上陛下、ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい!

>我々が日本の皇室の方々に寄せる敬慕・崇敬の念に、皇室の
>方々が全力で是に応えて居られる様がありありと感じられます
>この日が来て。陛下の国民を思いやるみ意に触れる時、私は
>「日本人に生まれてて好かった」と心の底からソウ思います。
もう泣きたくなるくらい同感です。

投稿: 練馬のんべ | 2009年4月29日 (水) 09時37分

>のんべ様
 私は、先帝陛下の終戦の詔勅を読んだ時、陛下が詔勅を御遺言代わりに書かれたのではなかったかと訝しみました、特に後半の部分では、国民に謝し、国民を慰め、ヤケになるなと諭して、心新たに世界に伍する国を再び皆で造らねばならないと結んで居られます。

 全文を通して、陛下は丸で慈父の如き心を以て、国民に接して居られますが、陛下が感じて居られた国民に対する責任の重さは如何量りか、想像ダにできません、オソラク、進んで死して、責任を取った方が楽ではなかったか。

 しかし、若いご時分から摂政の宮様として、日本に於ける天皇とは何かを熟知して居られたから、陛下の戦後果たすべきご使命が、皇統の維持と国体の護持=国民の保護である事に、早くから気が着かれ、そして、お苦しみになったのだと思います、そして敗戦を迎え、覚悟の上の結論がマッカーサーへの国民の命乞いであったし、やがて全国巡幸となったモノと解します。

 不遜でありますが、歴代のスメラミコトの逸話や伝説を渉猟しその評価を伺い知るに、先帝陛下ほどの聖帝は稀少であろうと私は思います。

 平民の私如きモノでも其れを知り、お姿や謦咳に接する事の出来る時代に生まれるお仕組みをいただいた事を神様に深く感謝するモノであります。

投稿: ナポレオン・ソロ | 2009年4月29日 (水) 16時15分

ナポレオン・ソロさま

>先帝陛下の終戦の詔勅…御遺言代わりに
なるほど。

>国民に対する責任の重さは如何量りか、想像ダにできません、
まさに。

>オソラク、進んで死して、責任を取った方が楽ではなかったか。
そう思います。ずっと楽でしょう。

>覚悟の上の結論がマッカーサーへの国民の命乞いであったし、
>やがて全国巡幸となったモノと解します。
はい。

>先帝陛下ほどの聖帝は稀少であろうと私は思います。
私もそう思います。聖徳太子以降では明治帝と並んで最高では。

>お姿や謦咳に接する事の出来る時代に生まれるお仕組みを
>いただいた事を神様に深く感謝するモノであります。
同感。名古屋に就職なさったと伺いましたが、東京に出てこられることがあれば、ぜひ武蔵野稜にご参拝を。

PS.武蔵野稜と言えば…先日、武蔵野市で子供と歩いて居たら、どこかのおばさま方がのんべに「武蔵野稜どこですか?」と…武蔵野市じゃないって!「高尾駅近くですが…」とお知らせしたら、びっくりしてました。でも、結構大胆な質問で、都民でも武蔵野稜の場所を知っている人なんて滅多にいないですよ…

投稿: 練馬のんべ | 2009年4月29日 (水) 17時08分

天皇とは何ぞや?と問われて一言で答えられる人は、
恐らく世の中に1人もいないと思います。
神道の司祭であり日本国民統合の象徴であり、日本における
最大の権威であり古事記から続く神の末裔であり…
正直、未だに謎めいた存在です。
ましてや、一個の権威しか認めないような連中に、
天皇の何たるかが解るはずがないのです。
こういうミステリアスな存在も、未だに日本を「不思議な国」
たらしめている要因ではないでしょうか。
もちろん、それを私は誇りに思っています。

投稿: ハーグ竹島 | 2009年4月29日 (水) 23時11分

ハーグ竹島さま

>天皇とは何ぞや…未だに謎めいた存在です。
その通りですね。天皇とは日本そのもの、としか言いようがないと思うけど、余計わからない。

>こういうミステリアスな存在も、未だに日本を
>「不思議な国」たらしめている要因では…
>もちろん、それを私は誇りに思っています。
まことに同感。

投稿: 練馬のんべ | 2009年4月29日 (水) 23時26分

>ハーグさん
>>天皇とは何ぞや?
 「天地社稷の百八十神(テンチシャショクノモモヤソカミ)との交信を取り結ぶ最高司祭で在らせられます」な~んて云ってもチンプンカンプンだし、其のお役目が未だ本筋のモノでは有り、今上陛下も最優先されて居られますが、お役目は、勿論それだけでは有りません、然も無くば、あの様にお忙しい筈がない。

 本当にご苦労様です。

 先帝陛下は若年に留学されて、英国王室と親しい関係に有った様です、特に、現エリザベスⅡ国王陛下の父君で在らせせられるジョージⅤ陛下には、まるで父君の様に接して貰ったとか、故に、英国人の果断さ、逆にいえば、敵に対する残酷さを十二分にお知りに成っていたから、英国との開戦は余計に忌避したかったと思います。

 我々平民には、想像し難い事ですが、戦前皇室では、親子と云えど幼時の交わりに至るまで、陛下と親王の関係が存在していた、其の上、御病弱で伏せり勝ちであった大正天皇陛下とは、簡単にお会いする事すらも難しく、先帝陛下は父性愛に飢えて居られたのではないかと、勝手に解釈しておりますが。

 先帝陛下がお示しに成られた天皇陛下とは、国体=日本の伝統文化、精神のみならず、領土、国民に至るまでの総称、の象徴たる存在です、日本そのものと言う事でしょう。

 故に、世に天皇陛下無くば、日本と言う国も無く、日本と言う国無くば、天皇陛下も存在しない、不可分のものと言うほか無い。

 戦後の解釈では国民主権ですが、是で、天皇陛下の立場が、戦前と比べて失墜したかと言えば、ソウでもない。

 其れは、元より、スメラミコトは、五穀豊穣を民草の安寧の為に斎き祀るのです、然に有らねば、先ず真っ先に我が世の永久を祈る筈。

 つまり、日本は元より民主体の国である、其れが証拠に、天孫足るスメラミコトとは云えど神霊が降下した民である事に変りは無い、しかし、スメラミコト足るは、選ばれた血筋でなくては天のみ意に適わない、他は万民が天皇陛下の赤子として平等であると言う考えが受け容れられています。

 其れが故、覇王が権威の王に平伏して来たのでしょう。

 選ばれた血筋へのこだわりとして顕著な例として、悪逆の王とされた武烈天皇を殺害した覇王大伴金村が、河内王朝をそのまま我が物にできる情況に在りながら、わざわざ、血筋を引くものを探したが、何れも金村を怖れて逃げ回る始末、探しあぐねた結果、なんと、当時の最大の敵であった丹波族のオオド王に白羽を立てる、と言う珍妙な話があります。

 結局オオド王は、継体の君として即位しますが、おくり名も継体天皇で、現在の皇室の祖でもあります、応神天皇五代の末の皇孫という話になって居ますが、ややもすれば2の4乗分の1、つまり、16分の1しか血を引いていないと言う反論も出てくる。

 しかし、此処で注目したいのは、権勢を誇った金村が、敢えて血筋に拘ったのには、万世一系の血筋こそ、国を永らく統治できると言う本質を見極める眼力があったと思うし、当時、スメラミコトは特別な血筋でなくては成らない、と皆が認識し、且つ、崇めていた様が伺えます。

投稿: ナポレオン・ソロ | 2009年4月30日 (木) 05時37分

ナポレオン・ソロさま
長文のコメント有り難うございました。のんべの本文よりよほど参考になります。少しだけ。

>天皇陛下無くば、日本と言う国も無く、日本と言う国無くば、
>天皇陛下も存在しない、不可分のものと言うほか無い。
まことに。日本にとって空気みたいなもので、普段存在を意識しなくても、存在がないと日本はありませんね。

補足。仰せのように、戦前も決して天皇「主権」ではありません。統治ス、とは書いてあるけど、立法:帝国議会の協賛が必要、行政:大臣が補弼し責任を負う、司法:天皇の名で法律により行う、ですから、今と大きく変わるわけではありません。戦後教育では「天皇主権」が強調されるけど、これはアサヒリですね。

投稿: 練馬のんべ | 2009年4月30日 (木) 06時33分

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