学力転落を反省し土曜日授業を復活せよ
『学力転落ショック、指導要領・理数一部を前倒し実施へ』(読売)
こういうのを「泥縄流」と昔から言うけど、泥縄でもなんでもいいから、さっさと改善すべき。昔から、過ちを改むるに憚ることなかれ、ともいいます。
ゆとり教育では成績が悪くなるのは当たり前です。「ゆとり脳」なんて言葉も出来ているほどゆとり教育は「うましか」養成ギブスみたいなもの。
まずは理数系の授業時間を増やすという作戦には賛成。しかし、理数だけでいいのでしょうか。
読解力が十分ではないため理数系の応用問題ができない、これは国語力不足そのもの。小学校では日本の県名を習わない社会、中学校では当然知っているものとして勉強しないので県名がわからない日本人わんさか。これでは困ります。
小学校の主要4教科、いずれも授業時間が足りないのは明らか。中学でも事情は変わらないでしょう。いつも言うことだけど、土曜日授業の復活を真剣に検討すべきです。
資源のない日本、優秀で勤勉な国民だけが国の宝です。しかしその国の宝が今や「人間国宝級」になってしまいました。そんな状況を改善する第一歩はゆとり教育の根本的反省でしょう。
(続きは記事の保存です、当面はリンク先をご覧下さい)
経済協力開発機構(OECD)が昨年、世界の15歳を対象に実施した国際学習到達度調査(略称PISA)で、日本が理数系の分野でトップレベルから転落したのを受け、文部科学省は5日、現在改定作業を進めている次期学習指導要領について、理科と、算数・数学の内容の一部を前倒しして、2009年度から実施する方針を固めた。
今年度末に改定される新指導要領は、当初は小学校で11年度、中学は12年度、高校は13年度から実施される予定だったが、早期実施を求める保護者らの声を受け、文科省は先月、一部内容を09年度から前倒しする方針を打ち出していた。
何を前倒しするかは未定だったが、今回の調査で理数系の順位の落ち込みが顕著だったことから、急きょ理科と、算数・数学の2分野から優先的に実施することにした。
前倒しする内容は、来年1月の中央教育審議会の答申後に検討する。授業時間についても、現在の枠の範囲で、理数系の教科に振り分けられる時間がないかを検討する。
渡海文部科学相は同日開かれた衆院文部科学委員会で「今回の結果は残念。これを踏まえて何が出来るのかを検討し、スピーディーに対応したい」と述べた。
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コメント
土曜日授業や改正学習指導要領、来年とか再来年とか言ってないでさっさとやれ!というのが私の本音ですが・・・とにかく、今度の調査で手痛い結果を見せられていい加減何とかしなければいけないと、ようやく気がついた(かどうか)でしょう。
資源が乏しい国なのだから、学力や知識力くらいはトップクラスでありたいですよね。素朴な感覚としてそう思います。
投稿: かついち | 2007年12月 6日 (木) 08時55分
かついちさん
まことに仰せの通り。日本と日本人から学力を取ったら何が残るのでしょうかね。
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月 6日 (木) 22時58分
否々、そもそも勉強を難行苦行の様に受け取っているのでは、学問に一生を賭ける事など出来はしないでしょう、理工系の職業で飯を食っている立場から言わせていただきますと、理工系の職業は、自分の持っている知識に自信が無くては仕事は出来ないし、同時に、自前の知識に疑いを持って居なければ、新たな知識は入ってこない、つまり、進歩は無いワケです。
大学までの知識の習得が貴重のように云われていますが、知識は日進月歩ですから、知識を伝達できるまでに体系化するウチに、使えない知識になってしまっている可能性があります。
学生時代で本当に大事なのは、知識を習得する業の錬成です、「どうしたら自分自身が、知識を最短期間で身につけ、実践できるか」と言う自分なりの方法や手段を発見する事です、学生時代とは、多くの人間にとって、社会人になる為の準備期間でしかない筈ですから。
教育水準の低下がゆとり教育の弊害である様に云われていますが、実は「必死さ」の欠如が原因ではないかと私は思っています、ニートが流行る理由と原因を一にしている様な気がします。
つまりは、豊かさの弊害です。
現代の子供が「餓え」を知っているでしょうか、白いご飯の有り難さが理解できるでしょうか、人間に能力差なんて大して無いと思います、それでも現実に差が付くのは、「必死さ」の度合いです、極めて云えば「餓え」の度合いです。
現実に時間的な「ゆとり」を持つ事を以て、「余裕」を身につける教育できると考えた事が間違っていると私は思います。
「余裕」は、「餓え」の対偶にあるモノなのです。
投稿: ナポレオン・ソロ | 2007年12月 6日 (木) 23時07分
ナポレオン・ソロさま
仰せの件はまことに正論、賛成します。
しかしながら、必死でなくとも、せめて土曜日まで遊ばずに学ばさせられるだけでも、ゆとり脳はだいぶ改善するのでは。遊ぶ時間が増えれば増えるほどゆとり脳になる確率は高まると思います。
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月 6日 (木) 23時13分
「アカイ教師」と「デモシカ先生」がつくる「ウマシカ生徒」・・。
投稿: ことだま | 2007年12月 6日 (木) 23時16分
私はいまの「ゆとり教育」が間違っているのであって学力強化は正しい「ゆとり教育」でなければいけないと思っています。
定石を教えるときなぜその手順が必要か考えるゆとりを与えず定石手順を鵜呑みにさせればいっぱい覚えさせることができます。
定石を外したらどういう損が生じるか考えるゆとりをもって定石を覚えたら覚えた数は限られます。
前者と後者とどちらが身に付くでしょう。
私は咀嚼する時間を与えるために教科時間を減らしたらその時間を咀嚼に使わず内職したりさぼったりする時間にあててしまったことに学力低下の原因があると思います。
正しいゆとり教育は教員の労働強化になると思います。
日教組は労働強化反対のためにゆとり教育反対の世論作りをしていると思います。我々は日教組の口車に乗ってはいけないと思います。
PS
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投稿: 島谷 | 2007年12月 7日 (金) 04時19分
>土曜日まで遊ばずに学ばさせられるだけでも、ゆとり脳はだいぶ改善する
↑については御意の通りだと思います、亦、島谷さんの仰せを読んで感じましたが、この制度を施行するに当たって「人は易きに流れる」事を無視していたのではないかと思います。
ガリガリ詰め込む記憶重視の勉強しかしていなかったから、応用力が育って居なかった、ダカラ其れを止めて、島谷さんが仰るように、知識を咀嚼する教育への移行を図りたかったのでしょうね。
でも、教える側も、習う側も易きに流れてしまった、それは、教える側が一体何をして善いのかが判らなかった事にも原因があるのだと思います、赤本手引きの授業しかできない教師が多いのに、自由にやれなんて云われてもムリだと思います、日教組の労働強化回避は仰せの通りでしょうが、それ以前に文部省に、「日本は世界でもトップ水準」と言うある種の「当然」の意識が有って、詰め込み教育の成功面から学べていなかったのではないか。
知識を咀嚼してその本性を見極め得るのは、如何に遣うかと言う知恵を遣って形を成した時でしょう、その時に遣われる知恵を教育でと言うのでしょうか、知恵は実践の分野で解発・発揮されやすいモノです、社会人になって現場で芽を出す人にはそう言う才能がある人が多くいます、知恵と言っても「役に立つ」知恵が尊重されるのですが、その知恵は試行錯誤の繰り返しで出てくるモノで、座學では実証と言う舞台が乏しいし、何よりモチベーションの元になる有益性を感じ取れないのでは、学校では余り有効ではないのではないでしょうか。
知恵を教育でナントカ、と言うのは永遠の課題のように思います。
投稿: ナポレオン・ソロ | 2007年12月 7日 (金) 07時02分
ことだまさん
アカイデモシカ→ウマシカ…うーん、困ったもんだ…
現在の「ゆとり教育」って明らかに日教組教師がゆとりを持つだけですね。
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月 7日 (金) 07時13分
島谷さん
先ほども書きましたが、現在の「ゆとり」教育は日教組教師の「ゆとり」(お陰で多くのまともな先生方は大迷惑)です。
また、以前書いたように「ゆとり教育」の目的は愚民化「出来ん者は出来んままで結構、エリート以外は実直な精神だけ持っててくれればいい」です。なので、その「ゆとり教育」に反対しております。
>正しいゆとり教育…咀嚼する時間を与えるために教科時間を減らした
なるほど。詰め込みの反省ですね。確かに詰め込み過ぎは問題だけど、子供は本来詰め込みに耐える脳を持っているのでは、私はある程度詰め込むべきか…とも思います。いずれにせよ今の「ゆとり」は最悪。
>正しいゆとり教育は教員の労働強化
それは大いに賛成。
コメントではご迷惑をかけたようで申し訳有りません。帰宅してから確認してみます。
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月 7日 (金) 07時30分
ナポレオン・ソロさま
すいません、出社の時間なのでコメント返信は帰宅後にします。
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月 7日 (金) 07時32分
「ゆとりを与える」、「詰め込みはやめる」は言葉から受ける感じは極めて心地の良いものですが、その弊害は極めて大きいと思います。人間は易きに流れます。「鉄は熱いうちに打て」と言いますが、人間にとってもこれが良いと思います。偉大な方々の伝記を読むと5歳の頃には「論語」を暗証できたと言った話もあります。若いときに大いに詰め込んで、その後経験を積んでそれを理解すると言うことは必要なことと思います。また、人間の能力に差がないと言う方もおられますが、私はそうは思いません。生まれながらに歌の上手い人、絵が上手な人色々の能力があると思います。そこで、小学校から優秀な人は英才教育をすればよいと思っております。今見たいに、能力に差がないとのもと、みんなに合わせた教育をしようとすると、最低の人に合わせて教育するしか方法はなくなり、低下につながります。権利は平等でも能力には人それぞれの違いがあることを認めることが最も必要なことのような気がします。
投稿: おっさん | 2007年12月 7日 (金) 09時11分
ナポレオン・ソロさま
>「人は易きに流れる」事を無視していた
うん、それは大いに賛成。なんかしてください、でもなにをしてもしなくても文句はいいません、と言われればなにもせずに遊ぶ人間が多いのは道理。
>それ以前に文部省に、「日本は世界でもトップ水準」と言う
>ある種の「当然」の意識が有って、詰め込み教育の成功面
>から学べていなかったのではないか
なるほど、パン(膝を打つ音)。文部省だけでなく国民全体の「空気」にそういう驕りがあったのでしょうね。
>知恵を教育でナントカ、と言うのは永遠の課題
仰せの通りですが、少なくとも小中学校レベルの知識は知恵を出すための材料なので、それを十二分に詰め込んでからの話かな、と思うわけです。
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月 7日 (金) 22時09分
おっさん様
>鉄は熱いうちに打て
>権利は平等でも能力には人それぞれの違いが
>あることを認めることが最も必要
うん、そうですね。大いに賛成です。
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月 7日 (金) 22時11分
正しいゆとり教育で成果を上げている学校もあります。
非行の横行で悩まされている学校が総合で街のゴミ拾いをしたそうです。
生徒は街の人から感謝の声をかけられだんだんと非行が減り今では非行少年のいない学校に生まれ変わったといいます。
しかも学力は大幅にアップしたそうです。
おそらく生徒同士でも教えあったりしているのでしょう。
生徒の指導にあたった先生方はもの凄い苦労をされたと思います。
日教組の発言力が強い学校だったら労働強化だといって反対したに違いありません。
投稿: 島谷 | 2007年12月 8日 (土) 03時28分
>街のゴミ拾いをしたそうです。
善いお話ですね、
掃除をする~町の人が声を掛ける~自分のしていることが認められた事の嬉しさを経験する。
褒められた原因を考えるに、皆が使う公共の場の清掃であるからであろうが、褒められたのは自分一人では無く、皆で成した事へ向けられた感謝だと言う事が、「愛郷心を育てる」事以外に連帯感をも生む、まぁ、大袈裟に云えばこういう事かなと思いました。
此処のミソは、始まりは強制でも構わない処ですね、起こした行為が、心地よい結果として還ってくるのなら、その行為は持続し易いし、副産物も生まれやすいと言うことでしょう。
こういう実践を通しての刺激が、知識以外の色んな力を育てて、知識を使う知恵を生み、育てて行くのでしょう、そう言う試みをして下さる教師なら、素直に先生と呼びたくなりますね。
投稿: ナポレオン・ソロ | 2007年12月 8日 (土) 06時20分
島谷さま
なるほど。それはまことに素晴らしいですね。
他にも上田市の大塚教育委員長が花を育てさせて(+米飯給食)成功した例が最近では有名です。
確かに、真のゆとり教育はあるべき姿ですね。
ただ、今の日教組マンセーゆとり教育は、いくらなんでも学習量が少なすぎ(私の時代の3割減)なので、特に小学校ではそれをある程度戻すことも重要かと。3割減をせめて1.5割減くらいにして、残り1.5割のところで真のゆとり教育がなされればいいですね。いまのは単なる3割が抜けているスカスカ教育ですから。
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月 8日 (土) 07時28分
ナポレオン・ソロさま
現教育基本法の精神にも叶う試みですね。最初は態度から入ることでも、感謝されているうちに心も変わってくるわけです。
>そう言う試みをして下さる教師なら、
>素直に先生と呼びたくなりますね
おおいに賛成!
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月 8日 (土) 07時31分
真のゆとり教育ができる教員をどうやったら育成できるでしょうか。
フィンランドは授業時間が短いのに学力が高いのは教員の質が高いからだといいます。
日教組をぶっつぶせば教員の質を高くすることはできると思いますが労働法を抜本的に改正しなければならないでしょう。
できる範囲で教師の質を1歩でも高めるにはどうしたらいいでしょうねぇ。
投稿: 島谷 | 2007年12月 8日 (土) 09時48分
島谷さん
そうですね。
日教組を破防法でも適用すべき、児童の学力・人格に対する破壊活動です…現実問題それは無理だから…
日教組にも、もともとは子供のために使命感を持って先生になった方が多いはず。その方々に初心を思い出して貰うことを考えるのが第一歩でしょうか…難しいですね…
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月 8日 (土) 09時58分
この先とても難しい問題ですね。
すでに教師になっている年齢の人達、これからなる人達が、すでに「ゆとり教育世代」です。
私の母(元教師)が定年間際に指導した実習生などは、小学校1年生が「自分の言う事を聞かない」と、授業中に教室を抜けてトイレで泣いていたそうです・・・。
授業時間を増やすのは私ももちろん賛成なのですが、増やした時間を無駄にしては意味がありません。
教師の質を高める事も非常に重要な課題と思います。
投稿: asayake | 2007年12月 8日 (土) 23時23分
asayakeさん
>すでに教師になっている年齢の人達、
>これからなる人達が、すでに「ゆとり教育世代」
うーん、それはその通りですねえ…
いくらなんでも実習生に学級崩壊したクラスを担当させるわけでもないでしょうから、書かれている例は情けない話…
>教師の質を高める事も非常に重要な課題
それは全面的に賛成。問題山積ですねえ…
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月 9日 (日) 07時44分
戦前の小学校卒の人には、古典・漢籍の素養がありました。
日本が戦前までやつて居た教育は本物のゆとり教育です。子供たちは放課後真つ暗になるまで泥だらけで思ふ存分遊んで居ました。そして高等学校などその良い例で、勉強などせずに帝国大学入学前の柔かい頭を大量の読書と学友との徹底的な議論で特訓し、入学前に様々な知識を自ずと吸収して準備して居たと聞きます。
翻り戦後の教育は所謂詰め込みと言はれて居ますが、実は詰め込みではありません。現に皆さんの脳内に記憶として全ての知識が残つていることはないと思ひます。つまり戦後の詰め込み教育と言ふのは、日教組のやうな阿呆によるイメージ戦略による産物以外の何物でもなく、オノレが楽をしたいが為に子供の教育を犠牲にしてきたと言ふ犯罪であると思つて居ます。
有史以来何百年に渡り日本人が築き上げてきた教育を彼らは数十年で崩壊させてしまひました。
投稿: 葦原屋 | 2007年12月12日 (水) 14時08分
葦原屋さん
さすが、気持ちよく急所を抉ったコメント、有り難うございます。やはり敵は教師を聖職から労働者に貶めた連中ですね。
投稿: 練馬のんべ | 2007年12月12日 (水) 19時31分