どこの社説がアサヒっているのか?
『「沖縄」教科書“政治的訂正”の愚を繰り返すな』(読売社説)
『沖縄戦集団自決 禍根を残した“二重検定”』(産経社説)
『集団自決検定―学んだものは大きかった』(朝日社説)
『集団自決記述 「強制」排除になお疑問が残る』(毎日社説)
今日(12/27)の仲良し4紙社説は、沖縄自決教科書検定問題でした。
「いわゆる「政治的真実(政治的配慮で「正しい」ということにしたこと)」を載せるために検定制度を曲げたのはけしからん」という読売・産経と、「沖縄戦で軍命による自決は自明の事実、まだ足りない」という朝日・毎日に見事にわかれました。
真実を報道するのが使命であるはずのマスコミ。それなのに、自決は軍命という前提が「政治的真実」と「自明の事実」に分かれている(のんべはもちろん前者が正しいと思うが、それはさておき)ので真実もへったくれもありません。どっちかがアサヒっているわけですから、ここは4紙共同で検証作業部会でも開いたらどうでしょうか。
多分、最初に逃げるのは朝日。アサヒり総本山に検証も反省もありません(笑)。今回「学んだものは大きかった」というのは、参加者2万人未満の集会で11万人とアサヒリ続けていたら反日フクダ政権がひよった、アサヒリ続けることが勝利への道と「学んだ」のでしょうね。
ところで、毎日が今回の中で一番ぶっとびかも知れません。結語を引用します。
『私たちは、高校レベルの教科書なら検定というタガを外すことを検討してはどうかと提言してきた。今回の問題もそれを提起してはいないだろうか。』
もし戦前の皇国史観教科書が使われることになっても、同じこと言うのでしょうか…
(続きは記事の保存です、当面はリンク先をご覧下さい)
『「沖縄」教科書“政治的訂正”の愚を繰り返すな』(読売社説)
検定意見を正面から否定するような記述訂正は認められなかった。とは言え、きわめて疑問の多い“政治的訂正”であることに変わりはない。
来年度から使用される高校日本史教科書の沖縄戦・集団自決の記述について、教科用図書検定調査審議会は、教科書会社6社から提出されていた訂正申請を承認する見解をまとめ、渡海文部科学相に報告した。これを受け、文科省は訂正申請を承認した。
例えば、今春の検定で「集団自決に追い込まれた人々もいた」とされていた記述は、「日本軍の関与のもと、配布された手榴弾(しゅりゅうだん)などを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた」と訂正された。捕虜になるよりは自決せよとの教育や宣伝があったことも背景として付記された。
最初の訂正申請では「日本軍の強制によって集団自決に追い込まれた人々もいた」とされていたが、審議会の意向を受け、申請内容が修正された。
今回、9人の専門家から意見聴取した審議会は、集団自決が日本軍の命令で行われたことは「確認できていない」、集団自決の要因には「様々なものがある」などとする見解をまとめている。
集団自決の際の軍命令の有無が裁判で争われていることなどを踏まえて、軍の「関与」はあったが「強制」は明らかでないとした、今春の検定意見の趣旨から逸脱するものではない。
しかし、日本軍が「自決しなさい」と言って住民に手榴弾を手渡したとの記述も訂正申請で認められた。これについては、その根拠となった住民の証言の信頼性を疑問視する研究者もいる。
今回の検定意見の撤回を求める沖縄県議会の意見書が採択されたことを追加記載して、認められた教科書もあった。
検定済み教科書に対するこのような訂正申請がなし崩し的に認められていくのであれば、内外の政治的思惑によって、教科書検定制度そのものが揺らいでいくことにもなりかねない。
政府が異例の訂正申請を認める発端となったのは、9月29日に沖縄県宜野湾市で開かれた検定意見の撤回を求める県民大会だった。
「参加者11万人」という主催者発表の数字が伝えられたが、その後、俯瞰(ふかん)写真に写っている参加者を数えた東京の大手警備会社は、1万8000~2万人と指摘している。
実数を5倍以上も上回っていた主催者発表の数字に、政府が驚いたことで始まった“訂正劇”だった。
政府は、教科書検定に対する政治介入の愚を二度と繰り返してはならない。
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『沖縄戦集団自決 禍根を残した“二重検定”』(産経社説)
沖縄戦集団自決をめぐり、教科書会社から出されていた訂正申請が、検定審議会で承認された。検定前の記述が一部復活し、検定制度が損なわれかねない結果を招いた。
当初の検定意見は、集団自決が日本軍の命令によって強制的に行われたとする誤った記述に対して付されたものだ。しかし、その後の訂正申請では、「強制集団死」「強制的な状況」といった記述が認められた。これでは、検定は何だったのかとの疑問を指摘されてもやむを得まい。
文部科学省は訂正申請を認めた理由を「住民の側から見て心理的に強制的な状況のもとで、集団自決に追い込まれたと読み取れる」などと説明しているが、国民には分かりにくい。
そもそも、訂正申請は誤字・脱字などに対してのみ認められ、検定意見にかかわる訂正は許されていない。それについて、検定審が開かれた前例もない。しかし、今回は、沖縄県議会で検定意見の撤回を求める意見書が採択されたり、同趣旨の県民集会が開かれたりしたため、検定審で訂正申請をめぐる異例の再審議が行われた。
審議会には、沖縄戦に詳しい専門家9人の意見書が提出され、日本史小委員会だけで7回も開かれた。事実上の“二重検定”であり、それ自体、検定制度を逸脱している疑いが強い。
教科書会社は最初、検定前の記述に戻すような訂正を申請したが、この検定を全く無視した申請は文科省も認めず、「集団自決に至った背景・要因」など多角的な記述を求める見解を示したうえで、再申請を求めた。この段階では、当初の検定意見を貫きたいという文科省の意向もうかがわれた。
しかし、その結果、各社とも、沖縄戦集団自決に関する記述が異様に膨らみ、まだ米軍来攻が予測されていなかった時期に自決用の手榴弾(しゅりゅうだん)が配られたという住民の不確かな証言まで、教科書に載ることになった。
「侵略→進出」の誤報で揺れた昭和57年の教科書問題で、沖縄戦の記述も問題とされたが、当時の小川平二文相は「正誤訂正(訂正申請)には応じない」とした。渡海紀三朗文科相もこの前例にならうべきだった。検定に対する不服申し立てを一部でも認めるような誤った対応を、二度と繰り返してはならない。
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『集団自決検定―学んだものは大きかった』(朝日社説)
日本軍によって集団自決に追い込まれた。そうした表現が沖縄戦をめぐる高校日本史の教科書検定で復活した。
教科書会社から出されていた訂正申請が文部科学省に承認されたのだ。その結果、次のような記述が来年度からの教科書に載ることになった。
・日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた住民もいた。
・米軍の捕虜になることを許さないなどの強制的な状況のもとで、住民は集団自害と殺しあいに追い込まれた。
今春の検定では、日本軍に強いられたという記述だけでなく、集団自決への軍の関与そのものも、文科省によって一斉に削られていた。
文科省は今回の修正について、あくまでも教科書会社からの訂正申請に基づくものであり、検定の撤回ではないという。しかし、沖縄などからの激しい批判を浴び、事実上、検定を撤回せざるをえなくなったということだろう。
こんな事態になった発端は当初の検定の異常さである。「すべての集団自決が軍の命令だと誤解される恐れがある」として軍のかかわりを軒並み削らせた。
今回、文科省は訂正申請の是非を検定調査審議会に改めて諮った。審議会は新たに沖縄戦の研究者らの意見を聴いて、審議の基準となる見解をまとめた。
軍の直接的な命令は確認できないとしながらも、集団自決の背景には当時の教育や訓練があり、集団自決が起きた状況をつくり出した主な要因には手投げ弾の配布などがある、と指摘した。
この見解は多くの人が納得できるものだろう。米軍への恐怖心をあおり、住民に捕虜になることを許さないという異常な軍国主義の下で、住民は集団自決に追い込まれたというのだ。
ただ、訂正申請の審議で、「軍が強制した」というような直接的な表現を最後まで許さなかったことには疑問がある。
それにしても、こうした常識的な見解をなぜ今春の検定で示せなかったのか。そうすれば、文科省の教科書調査官の調査意見書をそのまま通すことはなかったはずだ。メンバーの1人は「もう少し慎重に審議すべきだった」と話す。
当時は「戦後レジームからの脱却」を唱える安倍政権だった。時の政権の持つ雰囲気に、専門家らの審議会ものみ込まれたということはなかったか。
その一方で、とんでもない検定をきっかけに、集団自決がこれほど社会の注目を浴びたのは皮肉なことだった。
これまで集団自決が教科書に載るのは2~3行程度で、簡単な内容だった。それが訂正申請で、当時の社会的な背景なども書き込まれた。結果としては、内容はいっそう充実したかもしれない。
今回の検定問題は、沖縄の県民大会などをはさんで9カ月に及んだ。その間に多くの人たちが沖縄戦の実態を改めて学び、検定制度のいい加減さを知った。その苦い教訓を今後に生かしたい。
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『集団自決記述 「強制」排除になお疑問が残る』(毎日社説)
沖縄戦の集団自決と旧日本軍のかかわりをめぐる高校日本史教科書の検定問題で、文部科学省は「軍によって追い込まれた」などの表現で軍関与を認めた。しかし「強制した」などの直接的な記述は「軍の命令の有無は断定できない」という従前の理由で退けた。
当初の検定では「強制」表記の排除だけでなく、関与も軍を主語から外すなどしてあいまいにした。そこから見れば今回の修正は一歩踏み込んだともいえようが、軍と住民との間の根底にあった強制的関係、絶対的な上下関係をきちんととらえたものとはいい難い。
本土決戦準備の「時間稼ぎ」とされた沖縄戦で軍は持久戦法を取り、長期地上戦に住民を巻き込んだ。住民は、「捨て石」視された逃げ場のない島で、投降も許されず、しばしば軍に壕(ごう)から追い出されたり、食糧を取り上げられたりした。生き延びる選択を奪われたような状況を強いたのは軍であり、個別の自決命令の有無より、まずそうした基本関係への理解が必要だ。
今春の検定結果発表に沖縄県民や県内各議会が強く反発したのも、「本土は沖縄が戦争で強いられた多大な犠牲を認識していないのではないか」という不信と失望が底にある。
その意味で、十分とはいえないまでも、今回の訂正検定で沖縄戦の実態や背景の説明を前より増やしたことは歓迎すべきだ。集団自決を不本意に強いられたものという意味で「強制集団死」とする見方がある。それを紹介する記述も認めるなど、さまざまな考え方を反映させようとする姿勢は見える。いいことだ。
この見方をさらに深め、沖縄戦やその戦後を軸にした近現代史、戦争と平和、国際化、文化、風俗などさまざまな分野、テーマで学校教育の中に位置づけてはどうだろうか。
今回の問題を別の角度から見れば、「では学校は沖縄戦をどう教えてきたか」という問いにはね返る。歴史教育は古い時代の暗記物とされがちで、昨年は履修偽装問題も発覚した。毎年、戦争や戦後史などは授業が尻切れになって教科書をめくったこともないという生徒は多いだろう。
また今回、各教科書会社の訂正申請の検定について文科省の教科用図書検定調査審議会が経過を公表した。密室批判の強かった教科書検定では異例で、今後さらにガラス張り化を求めたい。
一方、軍関与をはっきり認めたことで検定の考え方に変化や「調整」があったとみるべきだが、文科省は「一貫している」と言う。それはないはずだ。こうした経緯も公開し、説明する責任もある。
私たちは、高校レベルの教科書なら検定というタガを外すことを検討してはどうかと提言してきた。今回の問題もそれを提起してはいないだろうか。
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