12月6日夕刻に九段会館で行われたので、のんべも行ってきました。(開会挨拶をする加瀬英明氏)
勇士のみなさんは、89歳~97歳まで、矍鑠たるものです。このようなお話しを伺える機会は二度とないかも知れません。
ここではごく簡単にその時のメモを紹介します。(当日の様子を紹介した産経のニュースはこちら、週刊新潮の記事はこちら)
・南京攻防戦は大激戦。日本軍は非常に苦労して陥落させた
・南京市民は南京中心部の「安全地帯」に集められており、シナ軍が敗走し日本軍が入ったときには、南京城(城郭都市)に入った時には、人気(ひとけ)皆無(どんな大量破壊兵器でも虐殺不可能…)
・南京城陥落後、日本軍の多くの部隊は南京市外に駐留
・日本軍の軍紀は非常に厳正
・南京安全地帯に入った部隊には七つの厳命
1.外国権益に留意
2.住民に対し配慮
3.失火や放火には厳重注意
4.将校の指揮下で敗残兵掃討作戦を実行(下士官の指揮ではだめ)
5.無用の部隊侵入は厳禁(富山・金沢の部隊のみ)
6.出発と帰還の時間厳守(夕刻には戻る)
7.捕虜は一カ所に集め、食糧は師団に請求
・安全地帯の人口は占領前後で20万人で変化なし
・捕虜の監視は輜重部隊!も実施。一晩に半数が逃亡することも。(輜重部隊:輸送を担当。戦闘力は無に近い)
・日本軍が入城後治安が回復し、商売を始める者も。
※勇士の一人がその時に紀念に作った印鑑を持参。(はんこ屋が商売していた証拠)
・日本軍の食糧事情は良好、現地調達が上手くいっていた
徴発の原則は、
・司令部の見える範囲で徴発
・住民の居るところでは1/3以内、受取伝票(半券)と費用の支払
・住民の居ないところでは外にあるもののうち1/2以内、その場合受取伝票(半券)を貼付。住民は後で日本軍に費用を請求
・受取伝票残りの半券と調達品は厳重に確認
・勇士のみなさんは、一切虐殺・掠奪を見聞していない
・占領数ヶ月後に現地調査を実施、日本軍に対する住民感情はまことに良好
などなど。貴重な証言をなさった勇士のみなさんに敬意を表します。
追記:開会時、チャンネル桜の水島総氏が国旗に一礼して登壇なさって、「南京の真実」第一部が撮影完了、1月25日によみうりホールで試写会、などを発表なさいました。詳しくは、「南京の真実」公式HP
追記2:この会を主催なさった皆様に感謝します。以下、皆様のご苦労に感謝する意味もこめて、「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」を引用します。
-----引用ここから-----
この会を思いついたのは加瀬英明氏で、ここに藤岡信勝氏や高山正之、杉原誠四郎、花岡信昭、西村幸祐氏に小生も加わって、じつは三月から実行委員会を十数回重ね、運営、プログラム、使用するスライド、参考文献の選定など、全員が手弁当で準備をして参りました。
冨澤繁信氏や茂木弘道氏らは、じっさいに生存兵士、元将校らを訪ね、事前のインタビューも終えて、取材は完璧でした。
またスライド作りは、過去の南京学会の成果があるとはいえ、選定に難儀し、何千枚という写真、地図、新聞資料から、小林太厳、溝口郁夫の両氏がかかりっきりの作業でした。藤田裕行、平野寛明氏らは介護つきで上京される生存勇士の出迎えからホテル送迎を宿舎に泊まり込みで世話をしました。
チラシ撒きの先頭にたった茂木委員など黒子に徹して頑張ってくれた数十名の学生諸君の縁の下の力がなければ、到底盛況には至りませんでした。「声優」を演じた西村幸祐委員も熱弁でしたし、冒頭の挨拶に立った水島総氏の挨拶の情感に溢れていて、本当に感動深い会になったと思います。皆さんのご支援の賜です。
また会の趣旨を知って、多くの賛助の申し出もあり、勇気付けられました。
集会への周到な準備もさりながら、生存勇士は、はるばる遠方から介護に助けられながらも、「死んでも死にきれない。このままで名誉が回復できず英霊に申し訳ない」と言って駆けつけられ、前夜に開かれた懇親会も、じつに感動的でした。
予測を超える憂国のひとびとが当日は寒風をついて参加してくれました。広く浄財も頂きました。最後に生存勇士を送るとき、参加者の拍手が鳴りやみませんでした。「感動的だった」と多くの感想も頂きました。
-----引用ここまで-----
(続きに産経の記事を保存、当面はリンク先をご覧下さい)
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