ゆとり教育は思い切って見直すべき
9/1の各紙「脱ゆとり教育」に関する社説から。(読売は別の社説)
『学習指導要領 「脱ゆとり」さらに徹底を』(産経)
『授業時間増―大切なのは「質」の方だ』(朝日)
『授業増加 「ゆとりからの逃走」が始まった』(毎日)
各社とも微妙に批判的なゆとり教育見直し。
産経は今回の見直しでは甘い、もっと「脱ゆとり教育」を徹底せよ、という意見。当然土曜日授業の復活も。のんべは賛成です。
朝日は授業時間の増加より質の改善を、という意見。習熟度別クラスなど。こういう「できない子への差別」は朝日サマは嫌いではなかったのかな(笑)、でも質の改善も必要というのはおおいに賛成。授業時間も増加させ、質も改善させ、です。質を落としているのは日教組だから、まずその非合法化が第一ですね、まさか朝日サマも反対しないでしょう(笑)。
毎日はゆとり教育見直し反対。そりゃあ、ゆとり教育にどっぷり浸かっていれば新聞のウソを見抜く力もなくなりますので、見直さないでくれたほうが有難いでしょうね(笑)。また『ゆとり教育は「楽をする」ことが目的ではない』こういうウソを言っては…毎日サンだからしゃあないか。ゆとり教育は日教組教師が楽をするためのものだったこと、忘れてはなりません。
ところで、いつのまにか小学校での英語教育が紛れ込んでいるようです。そんなあほなことだけはやめてくれ、小学校で英語教育なんて、優先すべきは国語に決まってるだろう…それに、英語ができないから小学校の教員になった、という教員がいないとでも思ってるんか…
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『学習指導要領 「脱ゆとり」さらに徹底を』(産経)
学習指導要領改定を検討している中央教育審議会が、小、中学校の授業について主要教科の時間数を増やす方針を決めた。ゆとり教育からやっと転換が図られる。「脱ゆとり」をさらに徹底し、学力回復につなげたい。
学習量は昭和40、50年代のピーク時から半減している。詰め込み教育や受験戦争への批判のなか、昭和52年の指導要領改定で「ゆとり」や「精選」の言葉が使われ2割以上削減された。
平成8年の中教審答申では、暗記型でなく自分で問題を解決できる「生きる力」が重視され、学校5日制や総合学習の時間の創設が盛り込まれた。
これを受け、10年の学習指導要領改定で土曜授業分以上に学習量を減らした。この削減で、「つまずきや落ちこぼれが減り、じっくり学ばせ、個性を育てる」というねらいだった。
しかし、その後の学力調査などをみると、読解力不足や論述型の問題ができないという弱点は変わらず、ゆとり教育が目指した能力は育っていない。逆に薄い教科書で学ぶ子供たちが、基礎基本を身につけていないことが明らかになっている。
今回の改定素案では、小学校の国語で「古文・漢文の音読や暗唱」、算数で「計算能力の確実な習得」を例示するなど、基礎的な知識を重視することを改めて示した。
ゆとり教育の象徴的授業だった総合学習については削減を打ち出した。教科で学んだ知識を活用し、自分で調べていく機会は重要だ。しかし子供任せの教師が少なくない。「さぼり教育」「遊びの時間」の批判さえある。
また、一部教職員組合が総合学習の教材用に偏向した歴史教育や平和教育の資料をつくり、授業が悪用されたケースもあった。
今回の授業増は政府の教育再生会議の報告に沿ったものだ。素案の脱ゆとりの方向は評価できるが、文部科学省や中教審はこれまで放置してきたゆとり教育への反省や検証をきちんと行っていない。
学力低下への危機感は強く、各地の教育委員会が独自に夏休みの短縮や土曜活用に取り組んでいる。文科省、中教審はゆとり教育の失敗を率直に認め、学習内容充実への明確な指針をさらに打ち出す時である。
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『授業時間増―大切なのは「質」の方だ』(朝日)
子どもたちにとっては、夏休みの終わりに追い打ちをかけられるような知らせだったかもしれない。
小学校の授業時間が増える見通しになった。30年ぶりのことだといい、早ければ11年度から実施される。
国語、算数、理科、社会と体育を約1割増やす。低学年で週2時間、3年生以上は週1時間程度増えることになる。
また、5、6年生には「英語活動」を週1時間程度取り入れる。その代わりに、3年生以上の総合的な学習の時間を1時間減らすことになった。
中学校でも、授業時間を増やす方向で検討が進められている。
これまで授業時間は、週5日制の導入や詰め込み教育への批判、ゆとり教育の推進などで減少傾向にあった。
それが一転して増やすことになったのは、学力が低下しているという批判に耐えられなくなったからだろう。その事情はわからないわけではない。
だが、それにしても文部科学省の方針は、あまりに揺れが大きすぎないか。
「ゆとり教育」を掲げて、「生きる力」を育むとして、鳴り物入りで新しい学習指導要領がスタートしたのは、つい5年前のことだ。その具体策が、授業時間の削減や総合学習の創設だった。
こんどは逆に授業時間を増やし、総合学習を減らすというのだから、子どもも教師も戸惑ってしまうだろう。
文科省が「ゆとり教育の見直しではない」と言っているのも理解しがたい。
自ら打ち出した方針を誤りだったと認めたくないのだろうが、これを機に「ゆとり教育」を変えるのだ、とはっきり説明した方がいい。そこをあいまいにしたまま色々な具体策を出していくと、現場は混乱するばかりだ。
もう一つ気になるのは、授業時間という「量」を増やせば、学力低下に歯止めをかけられると単純に考えているのではないか、ということだ。
もちろん、時間を増やすことがプラスに作用することもあるだろう。子どもによっては、増えた授業で理解が進むことがあるかもしれない。
だが、いま一番深刻な問題は、できる子とできない子の格差が広がっていることだ。授業についていけない子を時間を増やすことで救えるとは思えない。
できない子への教え方を大胆に変える。少人数や習熟度別の学級をつくる。そんなふうに「質」を変えなければ、全体の底上げを図ることはできまい。
英語活動の導入についても、ひとこと言っておきたい。
総合学習などを利用して英語を教えている小学校は、いまでも9割を超える。今回の方針は現状の追認ともいえる。
だが、導入するにしても、中学での英語授業の前倒しではなく、助走にとどめるべきだ。正規の教科にして成績を評価するようなことになれば、競争も激しくなり、副作用が大きくなりかねない。
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『授業増加 「ゆとりからの逃走」が始まった』(毎日)
小中学校の主要教科の授業時間が1割増える。小学校では高学年で「総合的な学習の時間」を削って英語の授業を始める。文部科学省の学習指導要領改定・告示を経て実施は早くて11年度だが、実態として早々と「ゆとり教育」に見切りをつける終業のベルが鳴らされたといっていい。
今の学習指導要領は98年に改められ、02年度から実施された。学校週5日制の中で、授業内容のスリム化、総合的な学習の時間の創設などを柱としたが、学力低下の批判を受け、安倍晋三首相は教育再生会議などを通じて全面見直しを表明していた。
ゆとりは失敗か。確かに当て外れや甘さはあった。一つは、目玉の総合学習が多くの学校や教員に大きな負担と感じられたことだ。
総合学習は検定教科書や点数評価がなく、学校や教員が独自の授業を工夫、考える力や学習意欲を高めることを目的にする。導入前「何をしていいか分かりにくい。例示を」という要望が強く、当時の文部省が「国際理解」「環境」など大まかなテーマを挙げた。その結果、国際理解を名目に英語学習をする学校が相次いだ。
当て外れの二つ目は、地域・家庭との連携だ。5日制で増える休日を活用し、地域や家庭の協力で体験学習機会の拡充が期待された。しかし、理念にまだ遠く、多くの子が受験塾、学校の土曜補習などに通う現実がある。
三つ目は、新しい学力観を反映するはずだった入試の改革がなかなか進まないことだ。単にふるい分けが主眼の難問奇問や、少子化時代に受験生取り込みを図る手抜き入試が横行する。
ただ、教育政策の成否を見るには年数と注意深い解析が必要だ。国際比較調査や現場の声などに基づく学力低下論も、本当に「ゆとり」の弊害なのか、短絡はないか、なお検証を要する。
またいうまでもなく、ゆとり教育は「楽をする」ことが目的ではない。文科省もゆとりの理念は今後も堅持するとは言う。だが本来の理念通りに実践するなら当事者は相当な努力を要し、その実りとして前記のように入試などに波及的変化をもたらすことも可能だ。そうしたことは避け、共通カリキュラムの教科学習を再び拡充し総合学習や選択教科を削るというのは「ゆとりという理念のしんどさから逃げる」ことではないか。
ゆとり教育導入の最大のつまずきは、学校現場や国民に共通理解を広げる説明が十分なされなかったことだ。今回の改定でも同じ状況がある。例えば、小学校の英語導入はどうか。大半の学校が総合学習に英語を入れている現状を追認し、「差がついてはいけない」と一律実施するという。話が逆立ちしている。まず十分な説明をして必要の是非を広く論議し、決定に反映させるべきではないか。
ことは教育だ。何をしようとしているのか。どう子供を育て、どういう人材像や価値観で将来を描くのか。もっと説き、論を交わし、共通認識を深める言葉が豊かに発せられなければならない。
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