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2007年7月10日 (火)

再掲:山崎正和氏が中教審会長とは身の毛がよだつ思い

再掲します。文藝春秋の8月号が今日発売されたので、もういいかな、と思いますので、続きに切り抜きを貼っておきます。

今月の文藝春秋、なかなか読み応えがあります。

例えば、塩野七生氏の「日本と日本人への10の質問」、故城山三郎氏の「私の履歴書」など、立場を超えて実に面白い。

しかし、山崎正和氏の「わたしの「道徳教育」反対論」はすさまじい。読んでぞっとしました。こんなオッサンが中教審会長をやっているとは…

例えば「道徳の代わりに「順法教育」を」ですって。順法「順法闘争」という表面的に法に順う、という感じがするので「遵法」のほうがよいと思うけどそれは気分の問題。

『いまや道徳は、現代では社会の合意を得られるようなものではない。従って公教育になじまない。その代わり「順法精神」を教えるべきだ。不純異性交遊と純愛の区別などつかないから倫理で教えるのは無理だ。幼い子供が異性と交遊することは問題があると考える人が多いから法律を作って12才以下の女の子と性的関係を持ったら法律違反だからだめ、と教えればよい。』(一部の要約)
だそうです。

なんでも法律を守ることさえ教えればよい、という発想。脱法行為の勧めとさえ言えます。なんでも法律で決められる、とでも思っているのでしょうか。

法律以前に道徳があります。法律の精神は、道徳に拠ります。なんでも法律で決めればよい、という世の中こそ恐ろしい。隅から隅まで法律でがんじがらめの世の中です。

現在の世の中が道徳が乱れているから法律で押さえ込むしかない、という発想。そう思う人がいてもいいけどこれが中教審会長…

『統治行為としての教育と福祉サービスとしての教育を混同するな。公教育は前者だけ、読み書きそろばんを徹底すべき。学校週3日制で、後の4日は自由に学びを追求すればよい。』

これこそ「ゆとり教育」の原点の発想です。三浦朱門氏も同じような発想で、「出来ん者は出来んままで結構、エリート以外は実直な精神だけ持っててくれればいい」「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」などと言ってゆとり教育を推進しました。結果はご存じの通り。

この人たち、とっても頭がいいんでしょうね。自分は優秀だから公教育なんかどうでも良かったよ。どうせ出来ない連中は教育したって無駄だよ。馬鹿共もせめて法律だけは守れよ。という発想がミエミエです。極右・極左共通の発想「無知な大衆を嚮導せよ」そのものです。

日本は資源のない国、優秀な人材だけが資源です。「人は城、人は石垣」です。馬鹿は馬鹿のままでいればいい、というのは格差の固定化、希望なき社会につながります。どうもそれが理想のようですね。

いやあ、ぞっとしました。これでは教育再生会議がいくら頑張っても無駄です。「美しい国」を作るためには、即刻このようなすさまじき御仁は首にすべきですね。

(続きに雑誌の切り抜きを貼りました)

Yamazaki_1 ←その1(クリックで大きくして(多分切れてる)、その状態で右クリックして画像を保存し、オフラインで読む、という面倒な作業が必要です。以下同様)

Yamazaki_2 ←その2

Yamazaki_3 ←その3

Yamazaki_4 ←その4完

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コメント

私は教育再生会議にも不満を持ってはいますが、大筋では納得していますよ!
中教審のはねぇ・・・・・

日本古来のよき教えを強制するのが何故いけないのでしょうか?
良い物は強制したって良いはず。

投稿: ひろふみ | 2007年6月19日 (火) 22時32分

ひろふみさま
昔から中教審はろくなもんではない、と思っていましたが、今月の文藝春秋を読んで大いに納得?しました。
教育再生会議がいくら提言したって、中教審がオジャマ虫じゃあなあ…

投稿: 練馬のんべ | 2007年6月19日 (火) 22時53分

いやぁ~こんな人に道徳を否定されたらたまったもんじゃないですね。ていうか、この人に教育を語らせちゃいけませんよ。
私のブログでも少し前に中教審の道徳教科化事実上否定という記事を取り上げましたが、こんな裏事情があったんですね。知りませんでした。
教育勅語も悪いことを教えているわけではありません。世界に翻訳されて広まっている事実を見れば明らかです。それを頭から否定しているのは、相当な石頭ですね。おそらく勉強のしすぎで石化しているのではないかと思ってしまいます(笑)
このような御仁は早々にクビですよ、ホント。

投稿: かついち | 2007年6月20日 (水) 09時12分

何ですか、これ?
日本人の最大の美徳は道徳的であることだと思います。道徳を身につければ、どんな状況に身を置いても、どのように行動すべきかが自ずとわかってきます。だけど、法遵守だったら、いちいち法律に照らし合わせるんでしょうか。法律に書いてないことはどうするのでしょうか。何だか、マニュアル重視のファーストフード店を思い出してしまいました。あれは、とてもアメリカ的なシステムですよね。法が無くても、マナーが良いのはどちらの国民でしょうね?

投稿: milesta | 2007年6月20日 (水) 12時55分

かついちさん
文藝春秋で偉そうにご高説を曰っているのですからね。信じられないオヤジ、なんでこんなスットコドッコイを安倍首相・伊吹文相は首にしないのか、まことに不思議です。

投稿: 練馬のんべ | 2007年6月20日 (水) 19時36分

milestaさん
なるほど、マニュアルさえ守れればいい、というマクドナルド方式が山崎正和氏の理想なのかもしれませんね。マクドナルドのバイトは安い給料で余計なことは言わずに働きますが、日本人もそうなれ、ということですか。まさに「ゆとり教育」思想の権化と言えましょう。

投稿: 練馬のんべ | 2007年6月20日 (水) 19時42分

はじめまして。今日はじめてこのサイトを拝見いたしました。土佐選手の胴メダル、私も新聞を読んでうれしくなりました。とてもめでたいことですよね。

ところで、道徳教育についてですが、私は山崎さんの意見に賛成です。
道徳とは、劇薬のようなものだと思います。
(例えが下手でしたら申し訳ありません)
よく使えばいいけれど、悪く使えば命取りになる。

たとえば練馬のんべさんはジェンダーフリーについて

「仕事がいちばんの人がいるのは当然ですね。問題は、政府がその価値観を一般人にも押しつけること、と思います。フェミニズムとは恐るべき思想統制…」

とおっしゃっていて、これは私も大賛成なんです。
(フェミニズムの硬直ぶりにはもううんざり!)
道徳教育とは、まさに「政府がその価値観を一般人にも押しつけること」だと思うのです。

日本古来の道徳といっても、『源氏物語』の人生論、能の幽玄、武道の精神性、いろんなものがありますよね。そのなかのひとつだけを教えるのではなく、いろんな日本の美(尾方光琳や鶴屋南北や、そのほかいろいろ……)に接してゆくうちに、自然と磨かれるのが日本の道徳なのではないでしょうか。それとも、私の考えはあまりにも軟派すぎますでしょうか……。
私も自分の意見にはあまり自信がないので、こちらで鍛えていだだければ幸いです。頓首再拝。

投稿: はじめまして | 2007年9月 6日 (木) 02時43分

はじめまして さま
ご意見ありがとうございます。

道徳は国家統制すべきではない、というご趣旨は、よくわかります。

極論を書いてみます。例えば「日本人は将軍サマにひれ伏すべし」「専業主婦など穀潰しなので女性は必ず働くべし」などという「道徳教育」がなされたら困ります。(もちろん「政権与党に投票することこそ愛国」「日本だけが世界で素晴らしい国、外国は日本にひれ伏すべし」でも困ることには変わりません。)

しかし、道徳教育すべきを全くすべきでない、というのもやはり極論では、と思うわけです。やっぱり法律に書かれていなくても日本人として生きる上の一般的な通念はあるはず。例えば、家族の絆は大切、真面目に働くことは大切、とか。

仰せのように、日本の美に触れていれば自然に養われるもの、そうあってほしいと思いますが、日本の美に触れる機会を設けるのはやはり教育の場でしょう。それも立派な道徳教育かと思います。

山崎氏の主張する、法律を厳しく決めて遵法精神だけ教育する、というのは、逆に法律に触れさえしなければよい、という脱法精神の教育そのものです。ホリエモン養成教育を国家が行うことです。日本には馴染まないのではないかと。

今後ともよろしくお願いします。

投稿: 練馬のんべ | 2007年9月 6日 (木) 04時22分

拝啓
丁寧な御返事をいただきながらこれまで返答を怠りまこと、まことに申し訳ございません。
新聞に道徳の教科化は見送りとの記事が出たので、一息ついたところです。また愚考を述べさせていただきます。お耳けがし、失礼いたします。

私も道徳教育は大切だと考えております。
しかし、それは教師や周りの大人が普通に指導すれば、身につくものではないでしょうか。
教科にするのは危ういことだと考えております。
(偏向した教師が大変な授業を行う危険もあります)

日本の美にふれる機会は、ほかの教科にやまほど、それこそ数えきらないほどありました。
私は思い出します。
国語で『平家物語』を読んだときの感動……。
地理や歴史で、日本のすばらしさを学んだよろこび……。
修学旅行は京都や奈良へ……。法隆寺を見たときの感激は忘れられません。
日本の美に触れる機会は、今の教育にもたくさんあるのではないでしょうか。私は懐かしくそれを思い出します。

また、堀江被告は法律に違反したのですから、むしろ順法精神が身についていなかったとする方が的確ではないでしょうか。
順法教育について「法律に書いてないことはどうするのでしょう」という御意見があり、とても興味深く拝読いたしましたが、法律は最低限の道徳、順法教育も、なかなか難しいものではないでしょうか。まずは順法教育から、という気がいたします。法律に書いていないこと、それは自然と身につくものだと、私は信じております。

長々と駄文をひけらかし申し訳ございません。
これからもおからだを大事に、のどやかにお過ごしくださいませ。つながりのできました御縁に深く感謝いたします。頓首再拝。

投稿: はじめまして | 2007年9月25日 (火) 03時38分

はじめまして様
ご丁寧に有り難うございます。
「遵法精神」という点は、例えば山崎正和氏の考え方「法律を作って12才以下の女の子と性的関係を持ったら法律違反」を教え込む、というのは「表面上の条文の遵守」であり、やはりいかがなものかと。本人が13歳の誕生日さえ迎えていたらいいのか、男の子ならいいのか、など、「条文のあら」を探すことが当たり前になります。シナのことわざ「上に政策あれば下に対策あり」そのものです。ホリエモン君は、結局この「条文のあら」(解釈)を甘く見て塀の中に落ちたわけです。
また、逆に無茶な法律も遵守せよ、例えば「高速道路では停止してはならない」というのを作ったとして、危険が明らかな場合でも停止しない、などという「遵法精神」でも困ります。

日本人が考える遵法精神とは、本来「お天道様が見ている」というものでした。悪いことはしてはならない、という常識を働かせて考える、というのは、本来家庭で教えるべきもの。

すんません、今朝は時間がないのでここまで。礼にかなった建設的なコメント、誠に有り難うございます。

投稿: 練馬のんべ | 2007年9月25日 (火) 07時29分

(続き)
家庭で教えるべきなのですが、団塊の世代以下、親が変な教育を受けているせいで教えられません。情けない限り。
ただ、確かに学校で教えられるのか、という疑問はその通りです。日教組が勝手に教える「道徳」なんぞ身の毛がよだちますね。だからこそ、国定教科書と、道徳専門の教師が必要なのでは、と思っています。
はじめまして様のご懸念もまことにその通り。悩ましい問題と思います。

投稿: 練馬のんべ | 2007年9月25日 (火) 22時09分

拝啓 
また返事を書かせていただいております。
生来の筆不精と、考えをまとめるのが下手なわが身の愚かさにより、またしても返事が遅れましたこと、申し訳ございません。練馬のんべ様の御返事、謹んで拝読いたしました。

私の説明不足のため真意がうまく伝わらず(なぜこう愚かなのかと、反省しきりでございます)、まことに失礼しました。
道徳教育よりも順法教育を重んじる山崎さんの意見に賛成する理由は、法律はそもそも道徳から発生したものであるからです。
「人を殺してはいけない」という道徳があるからこそ、殺人を禁じる法律はできました。
そしてその他諸々の法律も、道徳の最大公約数を受け入れるかたちで出来上がり、今なお変更され続けているものです。
法律にはもちろん不備があります。抜け穴を探す人も多いでしょう。しかし、それがもともと道徳によって成立したものであることを、大人は子供に伝える義務があると考えます。
「表面上の条文の遵守」については、
「そんなことをするのははしたないことです」と
毅然と教えるべきではないかと考えています。
無茶な法律については、
「法律は人が正しく生きるためにあるものです。こんな法律は現実に即していないから改めるべきです」とさとせば、子供も理解するのではないでしょうか。
(そんな教育は甘い、と言われれば返す言葉もございません。)
それでも「表面上の条文の遵守」をする人はいるでしょう。しかし法律は「表面上の条文の遵守」をするしかないものであり、その不備を防ぐために絶え間ない法改正が行われています。
十二歳云々というのは誇張法であって、山崎さんのこれまでの作風から鑑みて、皮肉に満ちた(そしていささか、いやかなり不謹慎な)ブラックユーモアではないでしょうか。山崎さんは世阿弥研究の世界的権威であり、正論と逆説の入り交じった戯曲を書く作家でもあります。しかし「文藝春秋」という場においては不適切な表現だったと思いますし、実直な練馬のんべ様が真に受けてお怒りになったのも当然のことと考えております。
大事なのは、法律が人間の道徳の最大公約数を表している、ということを子供に教えることではないでしょうか。

そして、私が道徳の教科化に反対する最大の理由は別のところにあります。
教科にして教師が評価するとなると、「先生に気に入られることを言っておけばいい」という、口先だけの道徳児童が増えることを懸念するのです。
道徳の教科化とは、道徳のマニュアル化に陥ってしまうのではないでしょうか。この件についても御高説を賜ることができましたら光栄に存じます。それでは御体にお気をつけ下さいませ。頓首再拝。

投稿: はじめまして | 2007年10月 3日 (水) 12時11分

はじめまして様
丁寧なコメント有り難うございます。

道徳のマニュアル化とは上手い仰せですね。それがまさに新教育基本法でいう「国を愛する態度」と同じです。

>「表面上の条文の遵守」については、
>「そんなことをするのははしたないことです」と
>毅然と教えるべきではないかと考えています。

その「はしたない」の感覚を教えることこそ日本人の道徳かと。道徳なき現代、その言葉、完全に死語になっていると思います。その感覚を子供がわかっていれば、あとは遵法精神を教えれば済む、と私も思います。

しっかりした日本の心を持っている親に育てられた子供には、道徳を教えるなど全く不要です。
しかし、全く逆の親があまりにも多い。「はしたない」など屁のカッパという親、そういううま・しか親に育てられた子供に対しては、せめて「道徳マニュアル」でも教えないよりはましなのでは。礼は形から入るものと思います。

はじめまして様のご意見、いつも参考になります。大いに感謝。

投稿: 練馬のんべ | 2007年10月 3日 (水) 22時20分

拝啓
いつも知性溢るる御返事をいただき、ありがとうございます。
はしたないものを「はしたない」と教えるのが大事だとはまことに彗眼、恐れ入りました。私はこの言葉はよく使いますし、死語になっているとは思っておりませんでしたが、御指摘を受け、自分が時代に鈍感になっていることに気づかされました。

しかしその感覚を教科として教えることなど、できるのでしょうか。先ほども申しました通り、法律には、道徳の中でもとりわけ多くの人に受け入れやすい、最大公約数の道徳、という側面があります。私は、これを教えるだけでも大変なことだと思うのです。
私は、道徳、美意識といったものはなんとなく身につけるものと考えておりまして、教科にしたからといって、果たして成果がでるものかどうか、大変怪しく思っております。

練馬のんべ様の考える「道徳マニュアル」とはどのようなものでございましょうか。また、教科としてどのように評価を行えばよいでしょうか。よろしければ、お聞かせ下さいませ。
ずうずうしいお願いをしてしまい、申し訳ございません。本日はこれにて失礼いたします。頓首再拝。

投稿: はじめまして | 2007年10月 9日 (火) 02時33分

はじめましてさま

普段から「はしたない」をごく普通に使っていらっしゃるとのこと、大いに敬服です。私も極力そうしたいと思っており、ブログを始めて間もない頃に記事にもしました。
http://nonbe.way-nifty.com/blog/2006/04/post_7cea.html
記事にはしていませんが、男の子には「やせがまん」がモットーです。

道徳マニュアル、確かに難しいですね。

実は最近、道徳だけではなく国語の教科書が重要なのかな、とも思っています。先生は子供達に何度も同じものを音読させていますので、こちらの方が自然に身に付くわけです。

例を出せば、先日紹介した光村の教科書収録の
「千年の釘にいどむ」 http://nonbe.way-nifty.com/blog/2007/07/post_5791.html
などはまことに良い例。これを繰り返し音読することで、千年後の仲間達に評価される仕事をすることは素敵だな、となんとなく意識に刷り込まれていきます。

道徳も、例えばはしたない行動をして恥ずかしい思いをした、というような題材を何度も繰り返し音読させる、ようなことも一案かな、と思います。

投稿: 練馬のんべ | 2007年10月 9日 (火) 05時35分

拝啓
衣替えの時節となりましたが、いかがおすごしでしょうか。
大変うるわしい文章を御紹介くださり、ありがとうございます。歴史に疎い私には、ありがたい勉強になりました。

教材としてはこの文章でいいかもしれません。(ただ「はしたない行動をして恥ずかしい思いをした、というような題材を何度も繰り返し音読させる」というのはいわゆる羞恥プレイのようで、失礼ながら感心しませんでした。暴言をお許し下さいませ)しかし、それをどう評価するのでしょうか。
私は、自分が他人の道徳性を評価できるなどとは考えておりません。もしいくらかでもそれができるとしたら、何年も何年も一緒に暮している、身内の者に対してだけでしょう。
たとえどれほどすぐれた先生であっても、自分は道徳を評価できる、と考える人間は非常に傲慢なものだと思います。道徳を安易に評価するのは、道徳への冒涜(旧字が使えず、困っております)ではないでしょうか。

また、私には、学校が教育しなければ道徳が乱れる、という感覚がわからないのです。学校にまかせなければ道徳が乱れる、という議論は、あまりにも今の日本を信頼していないのではないでしょうか。私は日本がそれほどひどい国だとは思いません。(私が世間知らずなだけかもしれませんが)練馬のんべ様の落し物を拾って届け出た方のように、いい人が大勢いると感じております。

だんだんと寒さが近づいてまいります。どうか風邪にはお気をつけくださいませ。頓首再拝。

投稿: はじめまして | 2007年10月13日 (土) 22時46分

はじめましてさま

落とし物の件はほんとに助かりました。まことに有難い話です。まさに日本ならでは。

貴殿のご意見にも大いに理があります。学校でどこまで教えられるかという問題もあります。例えば音読にどこまで効果があるか、というのもその通り。道徳を評価できるか、といえば、まあ教材に出ていた内容を覚えているかどうか、というレベルなんでしょうね。

大人もそうだけど、子供も明らかに二極化しています。のんべの住処は比較的まともな親が多いけど、うま・しか親が多いところもあります。親がまともな場合、道徳教育など無駄かも知れません。しかし、うま・しかのところでは、救済措置は必要でしょう。救済措置を全生徒に押しつけるのか、と言われたら困るけど、一応の日本人としての規範…恥の文化…を教える必要はあるのでは、と思う次第。いろいろ書いたけど、方法論は正直もっと研究が必要と思います。偉人伝(神話も含む)を音読させる、というのが昔ながらの端的な方法が基本とは思うけど…

道徳教育より親の教育の方が優先、と言われたらまさにその通りとしか言えませんが。

投稿: 練馬のんべ | 2007年10月13日 (土) 23時12分

ちょっとググったらここに来たのですが。道徳や倫理や法について何の勉強もしないで床屋談義が出来るのがブログのいいところですね。

投稿: nanashisan | 2008年12月18日 (木) 22時46分

nanashisanさま
そうっすよ。

投稿: 練馬のんべ | 2008年12月18日 (木) 23時18分

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