千早赤阪村の存続を強く望む
『大阪唯一の村消滅? 楠公ゆかりの千早赤阪が合併協議へ』(朝日)
うぉー、なんと残念な話。反対運動でもしたいところです。
千早城、赤坂城と言えば楠木正成公が数で圧倒的に勝る鎌倉幕府軍を翻弄した場所。この活躍なかりせば鎌倉幕府の滅亡も後醍醐天皇の建武中興も実現しなかったでしょう。天皇への忠節では史上屈指の楠公の大きな功績です。(写真は皇居前の楠公像)
千早赤阪と聞いた瞬間に日本人なら誰でも楠公を思います…うーん、そんなことないですねえ、戦後の歴史教科書から消されてしまったわけですから…。でも、やはり天皇家ゆかりのこの地名、きっと「河内長野市千早赤阪町」などという名前では残るのでしょうが、やはり市町村名に残しておきたいものです。合併後の新市名は「千早赤阪市」でどうでしょうか…などというと河内長野市の方々に怒られること請け合い…
平成の市町村合併で、由緒正しき市町村名がわんさか消えてしまい、「北広島町」だの「南アルプス市」だのまことにつまらん名前が増えました。まことに無神経な日本の行政、地名を消すことは歴史と伝統を消すことの第一歩だといつになったら気づくのでしょうか。変な地名を創出するのは歴史を捏造するようなもんです。だから日本の行政府は歴史の捏造に対してあれほど弱いのか…(北朝鮮のミサイル発射を小泉首相の靖國参拝のせいにした某新聞並の牽強付会ですね(笑))
(続きは記事の保存です、当面はリンク先をご覧下さい)
『大阪唯一の村消滅? 楠公ゆかりの千早赤阪が合併協議へ』(朝日)
「太平記」に登場する武将、楠木正成ゆかりの史跡が点在する大阪府内唯一の村、千早赤阪村が、5月にも西隣の同府河内長野市に対し、編入方式での合併協議会の設置を申し入れる。地方交付税の大幅削減などで、単独での財政運営が困難となり、松本昌親村長らが合併は不可避と判断した。住民説明会では、すでにほぼ半数の地区の同意を得ており、合併協議が成立すれば、早ければ来年4月にも村の名が消えることになる。
大阪・奈良府県境の山間部にある千早赤阪村は、過疎化が進み、人口は20年前の約7700人から約6600人まで減少した。歳入の約4割を占める交付税が、00年度の約15億円から07年度には約9億5000万円まで減り、財政事情が悪化していた。
同村は02年、富田林市、太子、河南両町と合併協議会を設置、償還が有利な合併特例債の発行が認められた当時の合併特例法の期限(05年3月)内の合併をめざしたが、対等合併か編入合併かなどで意見が対立し、協議会を解散した。
今度は河内長野市への編入合併を目指し、19日から住民説明会を始めた。5月13日までに村内12地区で計15回を予定している。これまでに開いた7地区は村の方針に理解を示しており、最終的に「合併やむなし」との意見が大勢を占めるとみられる。
村は村議会への報告などを経て、5月下旬にも河内長野市に協議会設置を申し入れる方針だ。それを受け同市は、年内にも市議会に協議会設置案を提出すると見られる。
松本村長は「交付税が今より多く、村の将来をあれこれ描いていた前回とは状況が違う。このままでは来年度予算が組めず、編入合併しか道はないと思う」と話している。
千早赤阪村は楠木正成の生誕地とされ、正成が鎌倉幕府軍に対してゲリラ戦を挑み、幕府滅亡のきっかけとなった千早城や赤坂城の跡がある。
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コメント
そういえば山古志村も上九一色村もなくなりましたね。
私の地元滋賀も唯一の村「朽木村」が合併によりなくなりました。
「高島市」という、旧郡名を冠した市名なので素直に受け入れられましたので満足しております。
そう言えば、うちの両親が生まれた当時、我が町(実際には「市」ですが)はまだ極々小さな村でした。
それが合併により市へ・・
時代の移り変わりってこんなものなんでしょうか?
投稿: ひろふみ | 2007年5月 9日 (水) 20時52分
ひろふみさん
平成の大合併で伝統有る地名が失われたのは残念ですね。時代の移り変わりと言ってしまえばそれまでだけど、でもねえ…
投稿: 練馬のんべ | 2007年5月 9日 (水) 22時04分
難しい話ですね....。
歴史的な地名といえども、今現在そこで暮らす人たちが居るわけで、よその土地の人間があれこれ言うのも無責任な話のような気もします。
ただ、練馬のんべさんの仰ることもよく解り、何とコメントしてして良いのか?私自身よく解りません。
私の住む高浜市内に、地域に伝わる伝説を元にした「蛇抜(じゃぬけ)」という町名が有り、交差点名も「蛇抜」が使われていたのですが、十数年前の町名変更で、普通の町名となり交差店名も変更となりました。(惜しむ声は当然あり、一時は復活運動もあったようです)
伝統や文化、歴史が、こういった形で消えていくことは本当に悲しい事だと思います。
「千早赤阪」と言う地名は、地域の人たちの力意志で残ると良いですね!?
投稿: 山本大成 | 2007年5月11日 (金) 16時33分
山本大成さま
仰せの通りと思います。ですが、「千早」「赤阪」という地名は、南北朝以降の日本人すべての公共財ではないかなあ、とも思うわけです。我が「練馬」なぞとは数十段格が違うわけで…
投稿: 練馬のんべ | 2007年5月11日 (金) 20時43分
残念ですね、千早赤阪村の合併は。
私は彼の地に縁を持つ者として慙愧の念に耐えないといった心情です。
仰られる通り名前だけはキチンと残して欲しいものです。
元々千早村と赤阪村との合併でしたので、河内長野市との合併後は昭和22年以前の千早村と赤阪村として残して頂ければ、より有りがたいと思います。
投稿: mambo | 2007年10月 2日 (火) 12時32分
mamboさま
コメント有り難うございます。
このニュース、その後を調べていなかった(怠慢…)のですが、先ほど千早赤阪村のHPを見たところ(下記参照)、今のところ棚上げされているがしばらくしたらまた俎に上がる見込みのようですね。まあ、合併はしゃあないとしても、仰せの通り名前は残してほしいと思います。
『「河内長野市との合併推進の協力、大阪府に支援要請」(平成19年7月)
合併協議に向けた気運が高まった…7月11日…松本村長・貝長村議会議長は大阪府に対し、「本村と河内長野市との合併協議を円滑に進めるため、積極的な人的・財政的な支援をお願いしたい」と支援の要請…』
『大阪府…千早赤阪村と河内長野市との合併協議が円滑に取り組めるよう…合併推進に向けた協議・調整…9月7日の「自主的な市町村の合併の推進に関する構想」の答申を踏まえ、その支援の具体化を検討…』
(引用元)
http://www.vill.chihayaakasaka.osaka.jp/yakuba_annai/gappei/01-keika.html#gappei-iinkai
投稿: 練馬のんべ | 2007年10月 2日 (火) 20時11分